
飲み会で、左右から話しかけられ、どちらにも生返事しかできなかった。
職場で、電話中に隣の人から質問され、頭が真っ白になった。
家族が一斉に話しかけてきて、「ちょっと待って、一人ずつ!」と叫んでしまった。
大勢の声に囲まれると、たいしたことをしていないのに、なぜかぐったり疲れてしまう。そんな経験はないだろうか。
それは、人付き合いが苦手だからでも、集中力がないからでもない。人の脳は、そもそも一度に一人の声しか、まともに聞き取れないようにできているのである。
とろLaboで連載中の小説『見えない私が、隣にいたら ―白猫怪談―』の第四章で、バーのマスター・咲が、まさにこの話をする場面がある。真夜中の交差点で、写真を見た人がなぜ倒れるのかを光一に説明するシーンだ。
「人の頭はね、一度に一人の声を聞くようにできてるのよ」「三人、四人に一度に話しかけられたら、何を言われてるのかわからなくなる。……それが、何百人よ」
――咲(第22話)
小説の中で起きているのは、もちろん現実にはない怪異である。しかし、咲の言う「人の頭は、一度に一人の声を聞くようにできている」という点は、脳科学で70年以上前から研究されてきた、確かな事実である。
今回は、騒がしい中でも一人の声を聞き分けられる脳の仕組みと、それでも大勢の声に囲まれると疲れてしまう理由を、研究から読み解いていく。
騒がしいパーティーでも、話し相手の声は聞き取れる
にぎやかな居酒屋で、あちこちから話し声や笑い声が聞こえてくる。それでも、目の前の友人の声だけは、しっかり聞き取れるはずだ。
この、多くの音の中から聞きたい声だけを選び出す脳の働きは、「カクテルパーティー効果」と呼ばれている。
名づけ親は、イギリスの研究者コリン・チェリーである。1953年、チェリーは、左右の耳に別々の話を同時に流し、片方の話だけを声に出して復唱してもらう実験を行った(Cherry, 1953)。
参加者は、選んだほうの話は正確に復唱できました。ところが、もう片方の耳に流れていた話については、ほとんど何も覚えていませんでした。話の途中で英語からドイツ語に切り替わっても、気づかない人が多かったほどです。
一方で、聞いていなかった耳の声が、男性から女性に変わったときは、ほぼ全員が気づきました。ピーッという音が鳴ったときも、全員が気づきました。
つまり、脳は聞いていない声についても、「声の高さ」や「音の種類」といった大まかな特徴はとらえている。けれど、その中身(意味)までは、ほとんど処理していないのです。
それでも、自分の名前だけは飛び込んでくる
ところが、聞いていないはずの話の中に、ひとつだけ例外があります。自分の名前です。
騒がしい部屋の向こうで、誰かが自分の名前を口にしたとたん、ハッと振り向いてしまう。そんな経験は、誰にでもあるはずです。
1959年のイギリスの研究では、聞いていないほうの耳に参加者自身の名前を流すと、およそ3人に1人が「名前が聞こえた」と気づきました(Moray, 1959)。1995年に同じ形で行われた実験でも、気づいたのは約35%でした(Wood & Cowan, 1995)。
名前に気づく人のほうが、気が散りやすい?
この話には、さらに意外な続きがあります。
2001年、アメリカの研究チームは、この「名前に気づくかどうか」を、ワーキングメモリ(頭の中で情報を一時的に保ちながら作業する力)の大きさと比べてみました(Conway ら, 2001)。
すると、ワーキングメモリの容量が大きい人で名前に気づいたのは20%だったのに対し、容量が小さい人では65%が気づいていました。しかも、名前に気づいた直後は、復唱のミスが増えていました。
研究チームは、これを「容量の大きい人ほど、関係のない声をしっかり締め出せている」と解釈しています。名前に気づくのは、耳がいいからではなく、脳のフィルターから、聞かなくていい声が少し漏れ出しているから、というわけです。
裏を返せば、脳のフィルターの強さには個人差がある、ということでもあります。同じ騒がしい場所にいても、すぐに疲れてしまう人と平気な人がいるのは、このためかもしれません。
聞き分けるフィルターは、使うほど疲れる
騒がしい場所で一人の声を聞き取るとき、脳は、ただ耳を傾けているだけではありません。
- 聞きたい声に注意を向け続ける
- まわりの話し声や物音を、締め出し続ける
- 聞き取れなかった言葉を、前後の文脈から推測して補う
- それを、相手の話すスピードに合わせて、リアルタイムでこなす
これらはすべて、注意力とワーキングメモリという、限られた脳の資源を使って行われています。聴覚の研究では、こうした頭の負担を「聞き取りの努力(リスニング・エフォート)」と呼び、騒がしい場所で長く会話すると、疲労感や頭痛、イライラにつながることが知られています。
聞き取るのに頭を使うほど、人の瞳孔は大きく開きます。体のほうも、ちゃんと「がんばっている」のです。
そして疲れがたまると、話の理解が追いつかなくなり、反応も遅れていきます。にぎやかな飲み会の終わりごろ、会話についていけずにぼんやりしてしまうのは、このためです。
三人、四人に一度に話しかけられると、脳は固まる
では、雑音ではなく、三人、四人が同時にあなたに向かって話しかけてきたら、どうなるでしょう。
チェリーの実験が示すように、脳がまともに中身を聞き取れるのは、基本的に一度に一人です。複数の人の話を「同時に」理解しているように感じるときも、実際には、注意をすばやく行ったり来たりさせています。そして、注意を切り替えるたびに、少しずつ取りこぼしが出ます。
しかも、自分に向けられた声は、どれも「聞かなければならない声」です。雑音のように締め出すわけにはいきません。全部に応えようとすればするほど、処理が追いつかなくなっていきます。
小説の第四章では、自作パソコンを操る整体師の真島が、こう言います。
「処理しきれない量の信号が流れ込むと、パソコンは固まる。人の頭も同じ」
――真島(第19話)
一度にたくさんの声を浴びて、頭が真っ白になる。「ちょっと待って」と言いたくなる。それは、あなたの脳が固まる手前で、ブレーキをかけようとしているサインなのです。
小説の中では、それが「何百人の声」だった
ここで、もう一度小説に戻ってみましょう。
第四章では、町を騒がせていた写真の歪みの正体が明かされます。交差点の下には、昭和19年に埋められた古い井戸がありました。そして咲は、地面に手をついて、その井戸に溜まった声を聞きます。
写真を見た人が倒れるのは、何百人もの声を、一度に聞かされるから。
三人、四人でも頭が追いつかなくなるのに、それが何百人。現実の脳の仕組みを知ってから読むと、この怪異の怖さが、少し違って感じられるはずです。
ちなみに咲が、わざわざ真夜中を選んで交差点に来たのにも理由があります。「人の声がうるさいと、あれの声が聞こえにくい」から。静かな場所のほうが、小さな声に気づきやすい。これも、現実の聞き取りの仕組みとよく重なります。
大勢の声に疲れないための5つのコツ
1. 話すときは、まず名前を呼ぶ
自分の名前は、騒がしい中でも脳のフィルターを通り抜けやすい言葉です。相手に何かを伝えたいときは、いきなり本題に入るより、「〇〇さん」と名前を呼んでから話し始めると、聞き逃されにくくなります。
2. 「一人ずつ」をルールにする
会議や家族の会話で、複数の人が同時に話し始めたら、「一人ずつお願いします」と言ってかまいません。聞き手の脳を守るだけでなく、話す側にとっても、ちゃんと伝わる場になります。
3. 背景の音を減らす
大事な話をするときは、テレビやBGMを消す、静かな席を選ぶ。それだけで、脳が「締め出す」ために使う力を減らせます。咲が真夜中を選んだのと同じ発想です。
4. 話し相手と、正面か隣に並ぶ
騒がしい場所では、話し相手の顔や口元が見えるだけで、聞き取りがぐっと楽になります。声の方向がはっきりする位置に座るのも効果的です。
5. 聞き疲れたら、静かな時間をつくる
にぎやかな場所から帰ったら、しばらくは音のない時間を過ごしましょう。疲れているのは耳ではなく、フィルターを働かせ続けた脳です。スマホの通知やSNSの書き込みも、脳にとっては「同時に話しかけてくる声」の一種なので、できれば少し遠ざけてください。
まとめ
- 人の脳は、騒がしい中でも聞きたい声を選び出せる(カクテルパーティー効果)。ただし、中身までまともに聞き取れるのは、基本的に一度に一人
- 聞いていない声の中身は、ほとんど処理されない。それでも自分の名前は、フィルターを通り抜けてくることがある
- 一人の声を聞き分けるのは、注意力とワーキングメモリを使う重労働。騒がしい場所での会話が疲れるのはそのため
- 何人もの人が同時に話しかけてくると、脳は処理しきれずに固まりそうになる
- 名前を呼ぶ、一人ずつ話す、背景の音を減らす。少しの工夫で、聞く側の脳はずっと楽になる
大勢に囲まれて疲れてしまう自分を、責める必要はありません。それは、あなたの脳が、一人ひとりの声にきちんと向き合おうとしてきた証拠です。
小説の中で、町の人たちは、この「何百人の声」とどう向き合うのか。続きは、ぜひ物語で確かめてみてください。
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参考文献
- Cherry, E. C. (1953). Some experiments on the recognition of speech, with one and with two ears. *The Journal of the Acoustical Society of America*, 25(5), 975–979.
- Moray, N. (1959). Attention in dichotic listening: Affective cues and the influence of instructions. *Quarterly Journal of Experimental Psychology*, 11(1), 56–60.
- Wood, N., & Cowan, N. (1995). The cocktail party phenomenon revisited: How frequent are attention shifts to one’s name in an irrelevant auditory channel? *Journal of Experimental Psychology: Learning, Memory, and Cognition*, 21(1), 255–260.
- Conway, A. R. A., Cowan, N., & Bunting, M. F. (2001). The cocktail party phenomenon revisited: The importance of working memory capacity. *Psychonomic Bulletin & Review*, 8(2), 331–335.
- Pichora-Fuller, M. K., et al. (2016). Hearing impairment and cognitive energy: The Framework for Understanding Effortful Listening (FUEL). *Ear and Hearing*, 37, 5S–27S.



















