第四章 源流1

木曜日の夜。最後の患者を見送り、受付のシャッターを半分まで下ろしたところで、真島は手を止めた。
路地の向こうから、足音が近づいてくる。
硬い革靴の音。整髪料のかすかな匂い。二日前と同じ組み合わせだ。けれど、歩幅が違った。二日前の足音は、まっすぐで迷いがなかった。今夜の足音は、店の手前で一度止まり、しばらく動かず、それから、観念したように再び近づいてくる。
真島は、シャッターに手をかけたまま、口元だけで笑った。
足音が、店の前で止まる。
「……真島」
「いらっしゃい」
真島は振り返らずに言った。
「二日だったね」
「何がだ」
「ううん、こっちの話。どうぞ、入って。シャッター、下ろしちゃうから」
達也は、返事の代わりに小さく舌打ちをして、半分下りたシャッターをくぐった。真島がシャッターを下ろし切ると、店の中は、エアコンの低い唸りだけが聞こえる静けさに包まれた。
スタッフルームに通された達也は、二日前と同じソファーに腰を下ろした。だが、今夜は、警察手帳を取り出そうとはしなかった。ネクタイは緩められ、ワイシャツの袖は肘までまくり上げられている。声にも、二日前のような硬さはない。ただ、ひどく疲れていた。
真島はコーヒーを二つ淹れ、一つを達也の前に置いた。今度は、達也はすぐにそれに口をつけた。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
やがて、達也が、カップをテーブルに置いた。
「……行き止まりだった」
低い声だった。
「お前の言った通りだ。ログも、通信記録も、ファイルの構造も、課の全員で洗い直した。何も出ない。攻撃者も、ウイルスも、侵入の痕跡も、何一つだ。それなのに、市のサイトの写真は、毎日歪み続けてる。昨日は、駅前でも人が倒れた。課の若い連中の中にも、画面を見て吐いた奴がいる」
達也は、自分の手のひらを見つめた。
「上からは、早くなんとかしろと言われてる。だが、なんとかしようにも、相手の顔が見えない。どこを殴ればいいのかすら、わからない」
真島は黙って聞いていた。
「……だから」
達也は、顔を上げた。そして、膝の上で両手を握りしめ、真島に向かって、深く頭を下げた。
「頼む、真島。力を貸してくれ」
スタッフルームに、沈黙が落ちた。
真島の目には、達也の姿は、ぼんやりとした輪郭としてしか映らない。それでも、達也が今どんな顔をしているのかは、手に取るようにわかった。小学校の頃から、この男が誰かに頭を下げたことなど、数えるほどしか知らない。
真島は、からかいの言葉をいくつか思い浮かべ、それから、全部飲み込んだ。
「……顔、上げなよ、たっちゃん」
真島は、静かに言った。
「最初から、そのつもりだったから。三番街は、僕の街でもあるって言ったでしょ」
達也は、ゆっくりと顔を上げた。
「……すまん」
「それに、今回は、ちゃんと『公式』なんでしょ?」
「ああ。課長に話をつけてきた。お前を、正式な捜査協力者として扱う。今までみたいな、裏でこっそり頼むやつじゃない」
「へえ。たっちゃんにしては、ずいぶん思い切ったね」
「……思い切らなきゃ、どうにもならねえ相手だろ」
達也は、苦々しげにそう言って、残りのコーヒーをあおった。
「で、だ。お前が掴んでるものを、全部教えろ。二日前、お前は『どこで乗っかってるか、見当がついてる』と言ったな」
「うん。その前に、紹介したい子たちがいるんだ」
「……子?」
真島は立ち上がり、部屋の隅に据えた、背の高い黒い筐体の前に立った。そして、その天板を、愛おしそうにぽんぽんと叩いた。
「この子たち」
達也は、怪訝そうにその筐体を見上げた。前面に縦に並んだ五つの小さなランプが、真島の手の動きに応えるように、順に淡く瞬いている。
「……パソコンだろ。ずいぶんでかいが」
「パソコンだけど、パソコンじゃないんだよね。中には、高性能のベアボーンが五台入ってて、特別なマザーボードでつないである。それぞれに、別々の学習をさせたAIが一つずつ載ってて、五つで議論して、一つの答えを出すの」
真島は、楽しそうに指を一本ずつ立てていった。
「実現性を探って、実行するのが得意な子。飛躍した答えを出すのが得意な子。ルールと倫理を何より守る子。効率を最優先する子。それから、全体を見て判断する子」
「……おい」
「名前もあるんだよ。紹介するね。まずは、萌芽の青龍、ジェネシス・ドラグーン。次が、紅蓮翔ける朱雀、クリムゾン・フェニックス。それから、断罪の白虎、ジャッジメント・ティーガー。深淵流るる玄武、アビス・ストリーム。そして、万象を視る黄龍、オムニス・アイ。五つ合わせて、五聖獣。ペンタグラム」
真島は、両手を広げて、得意げに胸を張った。
スタッフルームに、長い沈黙が落ちた。
「……真島」
「なに?」
「お前、三十五にもなって、何だその名前は」
「かっこいいでしょ」
「かっこよくねえ」
「えー。名前つけるのに三日かかったんだけどな」
「三日もかけるな、そんなもんに」
達也は、こめかみを押さえて、深いため息をついた。
「……要点だけ言え。そのペンタなんとかで、何がわかった」
「ペンタグラム。ちゃんと覚えてよ」
真島は不満げに唇を尖らせたが、すぐに表情を引き締めて、ソファーに戻った。
「じゃあ、要点だけね。まず、たっちゃんの課でも見つけた通り、歪んだ写真は、中身は同じなのに、サイズだけが大きくなってる」
「ああ」
「その増える量が、毎回違うの。同じ写真を、同じ条件で、同じ道を通して送っても、そのたびに、増える量が微妙に変わる」
「……どういうことだ」
「僕にもわからない。ただ、その瞬間ごとに、違う何かが乗っかってきてる、としか言いようがない」
達也は眉を寄せた。真島は、指を二本立てる。
「次。ネットから切り離したパソコンで、歪んだ写真を複製すると、元のファイルのサイズが減るんだ。減った分は、そっくりそのまま、複製のほうに移ってる。二つを足すと、元の大きさになる」
「待て。複製したら、元が減る? そんな馬鹿な話があるか」
「あるんだよ、これが。で、三つ目。ネットにつながったままの写真は、逆に増えていく。SNSで共有されればされるほど、乗っかってる何かが、大きくなっていく」
「……つまり、ネットで広まるほど、ひどくなるってことか」
「そういうこと」
達也は、しばらく黙り込んだ。それから、低い声で言った。
「それで、なんで人が倒れる。写真を見ただけで、なんで吐いたり、気を失ったりするんだ」
真島は、少し考えてから答えた。
「たっちゃん、パソコンが固まるのって、どういうときか知ってる?」
「……処理が追いつかないときだろ」
「そう。処理しきれない量の信号が、いっぺんに流れ込んでくると、固まる。たぶん、人の頭も同じなんだと思う。あの写真には、何かが、ものすごい量で詰め込まれてる。それを見た人の頭に、いっぺんに流れ込んで、処理しきれなくなって、固まる」
「何か、ってのは何だ」
真島は、すぐには答えなかった。
「……それは、僕の領分じゃないんだよね」
「は?」
「詳しいことは、咲さんに聞いたほうがいい。あの人なら、たぶん、僕よりずっと正確に、それが何なのか言い当てられると思う」
達也は、わけがわからないという顔で真島を見つめていた。真島は、くすりと笑った。
「たっちゃん、幽霊とか、信じる?」
「信じるわけねえだろ」
「だよね。じゃあ、今のところは、そういう『何か』ってことにしておいて」
達也は、何か言い返そうとして口を開き、それから、閉じた。窓の外の路地を、ちらりと見る。あの雨の夜、ネミッサの外で見た、陽炎のように揺れる蒸気のことを、思い出しているのかもしれなかった。
「……で、どこで乗っかってるんだ。肝心なところを、まだ聞いてねえぞ」
「三番街の、フリーWi-Fi」
真島は、あっさりと答えた。
「あれを通った写真にだけ、何かが乗っかる。交差点に一台、路地の入口に一台、駅前に一台。昨日、駅前で人が倒れたのも、その三台目のすぐそばだよ」
達也の目が、鋭く光った。
「市のサイトはどうなる。あっちは、商店街のWi-Fiなんか通ってないぞ」
「たぶん、保守用の裏口」
「裏口?」
「あのWi-Fiの機械には、業者さんが遠くから点検できるように、保守用の入り口がつけてあるはずなんだ。で、その業者さんは、市のサイトの保守も請け負ってる。たっちゃんの課でも、そこまでは掴んでるでしょ」
「……ああ」
「業者さんの管理サーバーを通して、Wi-Fiの機械と、市のサーバーが、細い道でつながってる。その道を伝って、向こうまで染み出していったんだと思う。犯人が侵入したわけじゃない。だから、痕跡がどこにもない」
達也は、黙って腕を組んだ。眉間のしわが、さらに深くなる。だが、その目には、ようやく殴るべき場所を見つけた男の光が、かすかに宿り始めていた。
「……それから、もう一つ。昨日の夜、光一さんから電話があったんだ」
「大川さんか」
「うん。あやめちゃんがね、紙に刷ったポスターを見ても、全然気持ち悪くならなかったんだって。画面で見ると歪むのに、紙だと平気。……つまり、写真そのものが呪われてるわけじゃない。データのほうに、何かが乗っかってる。僕が数字で見てきたことと、ぴったり同じだよ」
真島は、少しだけ嬉しそうに言った。
「中学生の女の子が、感覚だけで、そこにたどり着いたんだ。すごいよね」
達也は、ふん、と鼻を鳴らした。だが、その口元は、わずかに緩んでいた。
「で、俺は何をすればいい」
「その保守用の裏口に、僕が入れるようにしてほしい。業者さんに、正式に協力してもらって。三台の機械の記録を、全部見たいんだ。いつから、どの機械で、どの道を通って、何が乗っかったのか」
「わかった。明日の朝一番で話をつける。昼までには、お前がアクセスできるようにしてやる」
「さすが、たっちゃん。仕事が早い」
「その呼び方はやめろと言ってる」
達也は立ち上がり、緩めたネクタイを締め直した。スタッフルームのドアに手をかけ、それから、振り返らずに言った。
「……真島」
「なに?」
「猫の写真。二度とやるなよ」
真島は、きょとんとした顔をして、それから、声を上げて笑った。
「考えとく」
「考えるな」
ドアが閉まり、硬い足音が、路地の向こうへ遠ざかっていく。今度の足音は、来たときよりも、ほんの少しだけ、軽く聞こえた。
真島は、ソファーに深くもたれた。部屋の隅で、五つのランプが、静かに順番に瞬いている。
「……さて」
真島は、黒い筐体のほうに顔を向けた。
「みんな、明日から忙しくなるよ」
五つのランプが、返事をするように、一斉に、ちかりと瞬いた。















