第四章 源流4

金曜日の夜は、ネミッサが一番賑わう夜だ。
カウンターもテーブル席も、仕事帰りの客で埋まっていた。グラスの触れ合う音と、レコードのジャズと、笑い声が、赤レンガの壁に反響している。咲は、シェイカーを振りながら、ポケットの中で震えたスマートフォンに目を落とした。
光一からだった。
短いやり取りのあと、咲は通話を切り、しばらく黙ってカウンターの木目を見つめていた。それから、テーブル席でいつものように客の注文を取って回っていたありさを、手招きで呼んだ。
「ありさ。悪いけど、今夜、お店お願いできる?」
「え、咲、どこ行くの?」
「ちょっと、野暮用」
ありさは、咲の顔をじっと見た。それから、何も聞かずに、にっこり笑った。
「わかった。任せて。……気をつけてね」
咲は小さく頷き、蝶ネクタイを外して、カウンターの下にしまった。
◇
咲が交差点に着いたのは、夜中の十二時を少し回った頃だった。
光一が、ビリーブの店先で待っていた。店の明かりは落とされ、アーケードの照明も半分ほどに減らされている。昼間はあれほど人で溢れている交差点も、今はタクシーが時折通り過ぎるだけで、しんと静まり返っていた。
「悪いな、咲ちゃん。店、忙しい時間だったろう」
「ありさに任せてきた。……それより、光一さん、顔色、よくなったわね」
「慎吾に叱られたよ。咲ちゃんに怒鳴られた次の日に」
光一が苦笑すると、咲もほんの少しだけ口の端を上げた。
「なんでこんな時間に、って思った?」
「いや、時間を指定したのは咲ちゃんだろう」
「そうね」
咲は、交差点のほうを見た。
「人の声がうるさいと、あれの声が聞こえにくいのよ。街が一番静かな時間のほうが、ちゃんと聞き取れる」
咲は、交差点の角へと歩き出した。光一が、少し後ろからついてくる。
歩道の脇に、銀色の箱が立っていた。街灯の光を受けて、表面が鈍く光っている。その足元のアスファルトは、周りより少しだけ色が新しい。六月の終わりに、工事で掘り返された跡だ。
箱の上に、白いものが乗っていた。
「……ろくすけ」
白猫は、箱の上で前脚を揃えて座り、じっと足元のアスファルトを見下ろしていた。終業式の日のように毛を逆立ててはいない。ただ、何かを見張るように、身じろぎひとつしなかった。咲が近づくと、ろくすけは、ちらりと咲を見上げ、短く一度だけ鳴いた。
「見張っててくれたの」
咲は、ろくすけの頭をそっと撫でた。それから、深く息を吸い、箱の前の、色の新しいアスファルトの上にしゃがみ込んだ。
両手のひらを、地面につける。
昼間の熱を、まだかすかに溜め込んだアスファルト。その下で、何かが、蠢いていた。
最初に来たのは、冷たさだった。こめかみの奥ではない。手のひらから、腕を伝って、体の芯へと這い上がってくる、湿った、底知れない冷たさ。
次に、音が来た。
ざわざわ、ざわざわ。無数の人が、一度に話している。笑い声。怒鳴り声。すすり泣き。ため息。誰かの名前を呼ぶ声。今日の天気の話。姑の悪口。生まれた赤ん坊の話。出征した息子を案じる声。もう戻らない誰かを悼む声。水の冷たさに驚く、子どもの甲高い声。
咲は、目を閉じた。
まぶたの裏に、景色が広がった。深い穴の底。ごつごつした、苔むした石の壁。見上げると、丸い空が、遠く小さく切り取られている。あやめが見たという景色と、同じだった。
その丸い空の縁から、声が、絶え間なく降り注いでくる。何十年分、何百年分の、井戸端の声。毎朝毎晩、水を汲みながら、ここで交わされた、町の人たちの話し声。それが、穴の底に降り積もり、層になって、ぎっしりと詰まっている。
そして、穴の上のほうに、何かが割れた跡があった。
板の蓋。その真ん中に立っていたはずの、一本の細い筒。それが、ぐしゃりと押し潰されて、ひしゃげている。本来なら、そこから細く、静かに抜けていくはずだった息が、行き場を失って、穴の中で渦を巻いていた。渦は、出口を探して、穴の壁を叩き、蓋の割れ目を押し広げ、そして、すぐ脇に開いていた、もう一つの出口へと、どっと流れ込んでいく。
冷たい、金属の箱の中へ。
「……っ」
咲は、地面から手を離した。体が、ぐらりと傾く。
「咲ちゃん!」
光一が、咲の肩を支えた。咲は、荒い息をつきながら、しばらく光一の腕にもたれていた。額に、冷たい汗が浮いている。
「……大丈夫。ちょっと、深く潜りすぎただけ」
「何が見えた」
咲は、呼吸を整えてから、ゆっくりと口を開いた。
「洋子さんのおばあさんの言った通りよ。下に、井戸がある。何百年分の、町の人の声が詰まってる。それで、息をするための筒が、潰れてる。だから、出口をなくして、溢れて、すぐ隣のこの機械に、流れ込んでる」
咲は、銀色の箱を見上げた。ろくすけが、その上から、じっと咲を見下ろしている。
「この機械が、新しい出口になっちゃったのよ。たまたま、すぐそばにあったから」
光一は、黙って箱を見つめていた。
「……なあ、咲ちゃん。教えてくれ。なんで、写真を見ただけで、人が倒れるんだ。あやめも、裕太くんも、駅前の人も」
咲は、少し考えてから答えた。
「人の頭はね、一度に一人の声を聞くようにできてるのよ」
「一人の声?」
「そう。誰かと話してるとき、隣で別の誰かが話してたら、うるさいでしょ。三人、四人に一度に話しかけられたら、何を言われてるのかわからなくなる。……それが、何百人よ。何百人もの、怒ったり泣いたり笑ったりしてる声を、いっぺんに、頭の内側で聞かされるの」
咲は、自分のこめかみを、指先でとんとんと叩いた。
「誰だって、おかしくなるわよ。感じやすい人ほど、たくさん聞こえちゃうから、それだけ早く、倒れる」
光一は、低く唸った。あやめが、交差点で耳を押さえて「いっぱい、しゃべってる」と言っていたと、永輔から聞いていた。
「……止める方法は、あるのか」
咲は、すぐには答えなかった。
「塞げばいい、って話じゃないと思う」
「塞いじゃだめなのか」
「おばあさんが言ってたでしょ。息をさせてやらなきゃ、いつか溢れ出すって。今、あれは、この機械を出口にしてる。でも、この機械を止めても、口を塞いでも、たぶん、別の出口を探して、どこかから溢れ出す。井戸の中の声は、外へ出たがってるだけなんだもの」
咲は、アスファルトの上の、色の新しい部分を見下ろした。
「本当は、潰れた筒の代わりに、もう一度、ちゃんと息をさせる道を作ってやらなきゃいけないんだと思う。静かに、少しずつ、外へ抜けていけるような道を。……でも、どうやったらそれができるのか、まだわからない」
咲は、悔しそうに唇を噛んだ。
「私にできるのは、聞くことと、見ることだけ。こんなに大きなものを、どうやって鎮めればいいのかなんて、やったこともない」
光一は、しばらく黙っていた。それから、静かに言った。
「……わかった。ありがとう、咲ちゃん。それだけわかれば、十分だ」
咲は、立ち上がろうとして、ふと動きを止めた。
地面の下の、無数の声。その中に、何か、耳に引っかかるものがあった。ざわめきの底のほうで、誰かが、かすかに、節をつけて口ずさんでいる。言葉は聞き取れない。けれど、その節回しを、咲はどこかで聞いたことがある気がした。
「……咲ちゃん?」
「ううん。……なんでもない」
咲は首を振り、立ち上がった。ろくすけが、箱の上から、ひらりと咲の足元に飛び降りる。
二人と一匹は、静まり返った交差点を、ゆっくりと歩き出した。
「明日の昼、真島くんと須藤さんに来てもらって、これからのことを決める」
光一が言った。
「……私も、行ったほうがいい?」
咲が尋ねると、光一は、少し考えてから首を振った。
「いや。咲ちゃんには、別に頼みたいことがある」
「なに?」
「呉服屋の、源さんのところに行ってほしい」
咲は、目を瞬かせた。会合で、扇子を鳴らしながら、熱中症だ、気の持ちようだと言い張っていた、あの頑固な老店主だ。
「洋子さんのアルバムに、八十年前の井戸じまいの写真があった。その向こうに、源さんの店が写ってたんだ。あの人は、生まれも育ちも、あの店だ。子どもの頃に、井戸を埋めたときのことを、覚えてるかもしれない」
光一は、交差点の角を振り返った。
「息をさせる道の作り方。それを知ってるとしたら、たぶん、あの人だ」
咲は、しばらく光一の横顔を見つめていた。それから、ふっと笑った。
「……ほんとに、いつもの光一さんに戻ったのね」
「おかげさまでな」
足元で、ろくすけが、にゃあ、と小さく鳴いた。















