第四章 源流3

金曜日の夜。閉店後のビリーブの店内には、カウンターの明かりだけが灯っていた。
窓の外、交差点の角に立つ銀色の箱が、街灯の光を鈍く跳ね返している。光一は、その箱が見えない奥のテーブル席を選んで、慎吾と洋子を待っていた。夏子が、淹れたてのコーヒーを三つ運んでくる。
ドアのベルが鳴った。
「光一さん、お待たせ」
洋子が、両腕で抱えるようにして、古い布張りのアルバムを持って入ってきた。後ろから、慎吾が埃まみれの段ボール箱を提げてついてくる。
「物置の一番奥から出てきたのよ。おばあちゃんが亡くなったときに、そのまま仕舞いこんで、それっきり。三十年ぶりくらいかしら」
洋子はテーブルの上にアルバムを置き、そっと表紙を開いた。古い紙と、黴と、樟脳の混じった匂いが、ふわりと立ちのぼる。
色あせた白黒の写真が、黒い台紙に四隅を差し込まれて、何枚も並んでいた。着物姿の若い女性。赤ん坊を背負った母親。祭りの法被を着た男たち。そして、どの写真の背景にも、どこか見覚えのある町並みが写り込んでいる。
「これが、おばあちゃん。若い頃ね」
洋子が指さした写真には、割烹着姿の女性が、何人かの女たちと並んで、笑いながら写っていた。その足元に、丸い石組みが見える。腰の高さほどの、苔むした石の縁。その上に、木の滑車と、縄のついた釣瓶が下がっている。
「……井戸だ」
光一が、呟いた。
「ええ。これが、おばあちゃんが話してた井戸。それでね、光一さん、ここ見て」
洋子は、写真の背景を指でなぞった。井戸の向こうに、瓦屋根の商家が並んでいる。その中の一軒の軒先に、のれんがかかっていた。かすれた文字だが、かろうじて読める。
「……『呉服』?」
「そう。たぶん、今もある、あの呉服屋さんよ。建て替えてはいるけど、場所は同じ。それから、こっちの角の店。これ、たぶん、今のビリーブがあるところ」
光一は、息を呑んだ。
井戸は、呉服屋の向かい。ビリーブの角の、すぐ手前。それは、今、窓の外で街灯を跳ね返している、あの銀色の箱が立っている場所と、ぴたりと重なっていた。
「……交差点の、あの機械の真下だ」
光一の声が、かすれた。慎吾が、低く唸った。
「まさか、本当に、井戸の上だったとはな」
洋子は、さらにページをめくった。そこには、一枚だけ、ほかと違う写真が貼られていた。
同じ井戸だった。だが、石の縁の上に、厚い板の蓋がかぶせられている。その周りを、町の人たちが取り囲み、頭を垂れていた。蓋の中央からは、細い竹の筒が一本、まっすぐ空に向かって突き出している。竹の筒には、真新しい注連縄が巻かれていた。
写真の下の余白に、細い万年筆の字で、何か書き込まれている。
洋子が、声に出して読んだ。
「……『昭和十九年八月、井戸じまい。水神様に御礼申し上げ、息抜きの竹を立つ』」
「息抜きの、竹?」
夏子が首を傾げる。洋子は、写真の竹の筒を、指先でそっと撫でた。
「思い出したわ。おばあちゃん、言ってたのよ。井戸を埋めるときはね、そのまま塞いじゃいけないんだって。井戸には、水神様がいらっしゃるし、何十年も、何百年も、町の人の声が溜まってる。毎朝毎晩、水を汲みながら、みんなが話した声が、全部。だから、埋めるときは、ちゃんと竹を一本立てて、息をさせてやらなきゃいけない。そうしないと、行き場をなくして、いつか溢れ出してくるって」
店の中が、しんと静まり返った。
エアコンの風が、アルバムのページを、かすかに揺らした。
光一は、窓の外の銀色の箱を見つめた。何十年、何百年分の、町の人の声。嬉しいことも、悲しいことも、愚痴も、泣き言も。井戸端で交わされた、無数の独り言。
咲の言葉が、頭の中でよみがえる。何十人、何百人もの独り言を、瓶に詰めて、煮詰めたようなもの。
「……慎吾。咲ちゃんは、正しかったんだな」
「ああ」
慎吾は、腕を組んだまま、低く答えた。
そのとき、ドアのベルが、もう一度鳴った。
四人が一斉に振り返る。入口に立っていたのは、ダークスーツの、背の高い男だった。小脇に、分厚い書類の束を抱えている。
「夜分にすみません。県警本部サイバー犯罪対策課の、須藤です」
男は、警察手帳を掲げて、軽く頭を下げた。
「大川光一さんは、こちらに」
「私です」
光一が立ち上がると、慎吾が「おっ」と声を上げた。
「須藤さんとこの達也くんじゃねえか。咲ちゃんのとこの隣の。でかくなったなあ」
「あら、ほんと。達也くんじゃない。すっかり立派になっちゃって」
洋子が、アルバムから顔を上げて、目を丸くした。
「……どうも、杉本さん、洋子さん。ご無沙汰してます」
達也は、少しばつが悪そうに頭を下げた。それから、光一に向き直った。
「商工会のホームページの件と、フリーWi-Fiの件で、お話を伺いに来ました。Wi-Fiの機械を据えつけたときの経緯を、会長さんから直接聞いておきたくて。……今日の昼、設置の記録を取り寄せたら、気になることが出てきたもので」
達也は、書類の束をテーブルの上に置いた。一番上の一枚には、交差点の工事の記録、と書かれていた。
「交差点の工事を請け負った業者から、記録を取り寄せました。フリーWi-Fiの機械を据えつけるのに合わせて、歩道の下の古い配管を付け替えた工事です」
達也は、書類の一か所を指で示した。
「六月の終わり。掘削の最終日に、作業員が一人、作業中に意識を失って、救急搬送されています。診断は熱中症。本人は、今も、そのときのことをよく覚えていないそうです」
「……六月の終わり」
光一が、繰り返した。真島から届いたメールにあった日付と、同じだ。交差点の機械に、最初の異常が記録された日。
「それから、これです」
達也は、もう一枚の書類を引き出した。工事の日報の写しだった。走り書きのような文字で、短い一文が記されている。
──地中より、旧構造物の一部と思われる石材、および古い竹筒を検出。重機にて破砕。作業続行。
誰も、何も言わなかった。
洋子が、震える手で、アルバムの写真を書類の隣に並べた。井戸の蓋。注連縄の巻かれた、一本の竹の筒。
達也は、その写真を見下ろして、眉を寄せた。
「……これは」
「八十年前に、あの場所を塞いだときの写真です」
光一は、静かに言った。
「井戸を埋めるときに、息をさせるために立てた竹。……それを、六月の終わりに、工事の重機が砕いた」
光一は、窓の外の、銀色の箱を見た。
息をする道を失った、何百年分の町の声。それが、砕かれた竹の跡から溢れ出して、すぐ隣に立っていた、真新しい機械の中へ流れ込んだ。そして、その機械を通るたびに、写真の上に乗って、街じゅうに広がっていった。
「……つながった」
光一は、低く呟いた。
達也は、しばらく黙って写真と書類を見比べていた。それから、ゆっくりと顔を上げた。
「大川さん。……俺は、正直、こういう話は信じない人間です」
「わかります」
「ですが」
達也は、書類の上に、そっと手を置いた。
「課の連中が三日かけて何も見つけられなかったものを、あいつは数字で、大川さんのお嬢さんは紙のポスターで、洋子さんはおばあさんのアルバムで、それぞれ別々の道から、同じ場所に辿り着いた。……それを、偶然とは呼べません」
光一は、達也の顔を見た。そこには、困惑と、それでも目の前の事実から逃げない男の、頑固な誠実さがあった。
「真島が言っていました。これは、自分の領分じゃない。詳しいことは、咲に聞けと」
達也は、少しだけ苦い顔をした。
「咲には、俺から連絡します。……あいつのほうが、きっと、話が早い」
「いや」
光一は、首を振った。
「咲ちゃんには、俺から頼む。今夜、あの交差点を、咲ちゃんに見てもらう。須藤さんには、真島くんのほうを頼みたい。今わかったことを、全部、真島くんに伝えてください。それから、明日の昼、ここに来てもらえますか。真島くんと一緒に」
達也は、一瞬だけ、意外そうな顔をした。商工会の会長だという、喫茶店の店主。その男が、県警の捜査員に、まるで部下に指示を出すような口調で話している。それなのに、不思議と、反発する気が起きなかった。
「……わかりました」
達也は、小さく頭を下げた。
光一は、ポケットからスマートフォンを取り出した。咲の番号を呼び出す。
窓の外では、交差点の角で、銀色の箱の小さなランプが、ちかり、と瞬いていた。















