第四章 源流5

土曜日の昼。ビリーブの入口には、「本日貸切」の札が下がっていた。
奥のテーブル席に、四人の男が顔を揃えていた。光一と慎吾。その向かいに、達也と真島。テーブルの上には、洋子のアルバムから抜き出した二枚の写真と、工事の日報の写し、そして真島のノートパソコンが並んでいる。
真島は、さっきから何度も、こめかみを指で押さえていた。
「どうした、真島」
達也が、横目で尋ねる。
「いや。ここ、近いからさ」
真島は、窓のほうへ顔を向けた。交差点の角に立つ銀色の箱は、真島の目には、ぼんやりとした灰色の塊にしか映らない。それでも、店の中にいて、耳の奥のざわめきが、あんま堂にいるときより、ひと回り大きく聞こえた。
「……昨夜、あれの真下を、咲さんが見たんですね」
真島が言うと、光一は頷いた。
「ああ。井戸がある。何百年分の、町の人の声が詰まってる。息をするための竹が潰されて、出口をなくして、隣の機械に流れ込んでる。……咲ちゃんは、そう言った」
テーブルの上の写真と日報は、昨夜のうちに、達也が電話で一枚ずつ読み上げてくれていた。注連縄の巻かれた、一本の細い竹の筒。古い竹筒を検出。重機にて破砕。真島は、写真の縁を、指先でそっとなぞった。
「数字の上でも、同じことが言えます」
真島は、ノートパソコンの画面を三人のほうに向けた。三台のルーターを結んだ線と、日付の入ったグラフ。
「始まりは、六月の終わり、交差点の一台。そこから、一本のチャネルを伝って、二週間後に路地の入口へ。四日前に、駅前へ。ルーター同士が連絡を取り合う通り道に、乗っかって運ばれてる」
「水路みたいなもんか」
慎吾が、腕を組んで唸った。
「そうです。だから、その水路を一本、塞ぎます」
真島は、画面を切り替えた。細かい手順が、びっしりと並んでいる。
「交差点の機械の、問題のチャネルだけを止めます。ルーター同士の連絡は、別のチャネルに付け替える。交差点の機械につながるお客さんにも、別のチャネルに移ってもらう。使う人から見たら、少し繋がりにくくなるくらいで、フリーWi-Fiそのものは止まりません」
「どのくらいかかる」
光一が尋ねた。
「準備に四時間。作業そのものは、一時間ちょっとです。人の少ない真夜中にやれば、ほとんど誰にも気づかれません」
「効いたかどうかは、どうやってわかる」
「すぐにわかります」
真島は、迷わずに答えた。
「僕は、あの写真のサイズを、一時間おきに記録してます。水路を塞げば、少なくとも、路地と駅前の機械に新しく流れ込む分は止まるはずです。早ければ、翌朝には、数字に出ます」
達也が、書類の束から一枚を抜き出して、テーブルに置いた。
「保守業者には、もう話を通してある。今夜、遠隔で立ち会うそうだ。あとは、管理者の承認だけだ」
三人の視線が、光一に集まった。
商店街のフリーWi-Fiの管理者は、商工会だ。その会長の判子がなければ、どこにも手はつけられない。
光一は、すぐには答えなかった。
窓の外の、銀色の箱を見ていた。
「……咲ちゃんは、塞ぐなと言ってたんだろう」
口を開いたのは、慎吾だった。低い声で、まっすぐ光一を見ている。
「ああ。言ってた」
光一は、窓から目を離さずに答えた。それから、真島のほうへ向き直った。
「真島くん。昨夜、咲ちゃんに言われたことを、そのまま伝える。……あれは、出口をなくして溢れてるだけだ。機械を止めても、口を塞いでも、たぶん、別の出口を探して、どこかから溢れ出す。本当は、潰れた竹の代わりに、もう一度、息をさせる道を作ってやらなきゃいけない」
真島は、黙って聞いていた。
それから、ゆっくりと、ノートパソコンの画面を見下ろした。
「……僕のほうでも、似たようなことを言ってる子がいます」
「子?」
慎吾が眉を上げる。達也が、うんざりした顔で額を押さえた。
「こいつのパソコンの話です。気にしないでください」
「五人いるうちの一人が、ずっと言ってるんです。情報が足りない。原因は、観測できる範囲の外にあるかもしれない、って」
真島は、小さく肩をすくめた。
「つまり、僕の手が届くのは、ネットワークの中だけです。井戸の中までは、届かない。水路を塞いでも、井戸そのものは、何も変わりません」
店の中が、静かになった。
カウンターの奥で、夏子がコーヒーを淹れる音だけが、かすかに響いている。
「それでも、やるべきだと思う」
光一が言った。
三人が、光一を見た。
「咲ちゃんの言う、息をさせる道。それがどんなものなのか、どうやって作ればいいのか、咲ちゃん自身にも、まだわからない。わかるまで、何日かかるかもわからない」
光一は、指を一本ずつ折った。
「真島くんのやり方なら、今夜できる。効いたかどうかは、明日の朝、数字でわかる。それに、うまくいけば、少なくとも、路地と駅前で倒れる人は減る」
光一は、窓の外へ目をやった。
「その間に、ネットに出回ってる写真も、これ以上は増えない。……期限まで、あと五日だ。待ってるだけの余裕は、ない」
「だめだったら、どうする」
慎吾が、静かに問うた。
「元に戻せるんだろう、真島くん」
「十分あれば」
「なら、やってみて、だめなら戻す。その間に、咲ちゃんには、息をさせる道を探してもらう。どっちかじゃない。両方だ」
慎吾が、ふっと鼻を鳴らした。どこかで聞いた台詞だな、という顔だった。
光一は、達也が差し出した書類を引き寄せ、胸ポケットからペンを抜いた。
「商工会として、承認する。何かあったら、責任は俺が持つ」
迷いのない字で、名前を書き入れる。
達也は、書類を受け取ると、光一に向かって、深く頭を下げた。それから、隣の真島を肘でつついた。
「聞いたな。今夜だ」
「わかってるよ、たっちゃん」
「その呼び方はやめろ」
慎吾が、喉の奥で笑った。
◇
同じ頃、交差点の向かいの、荒木呉服店。
「帰ってくれ」
店の奥の上がり框で、荒木源太郎は、扇子をぱちんと鳴らした。
九十に手が届こうかという歳だが、背筋は板を入れたようにまっすぐで、白い眉の下の目は、少しも濁っていない。生まれてこの方、一度もこの店を離れたことがない、というのが自慢の、商店街で一番の古株だった。
「井戸だの、声だの、くだらねえ。この暑さだ。熱中症に決まってる。会合でもそう言ったろう」
「ええ。聞きました」
咲は、少しも引かなかった。上がり框の前に立ったまま、鞄から、一枚の紙を取り出す。洋子のアルバムの写真を、慎吾が今朝、商店街の写真館で紙に焼き直してくれたものだ。
「源さん。これ、見てもらえますか」
源さんは、面倒くさそうに、写真を受け取った。
老眼鏡をかけ、写真を目の前に持ち上げる。
扇子の動きが、止まった。
井戸の蓋。注連縄の巻かれた、一本の竹の筒。頭を垂れる人々。その向こうに、かすれた「呉服」の文字の、のれん。
源さんは、長いこと、黙って写真を見つめていた。店の中に掛けられた、色とりどりの浴衣が、エアコンの風に、かすかに揺れていた。
「……親父だ」
やがて、源さんが、ぽつりと言った。皺だらけの指が、写真の端に立つ、一人の男をなぞる。
「これ、親父だよ。注連縄を巻いたのも、親父だ。……俺は、七つだった。この店の前から、ずっと見てた」
咲は、息を詰めて、次の言葉を待った。
「竹を立てるとき、親父が言ったんだ。この竹が折れたら、町じゅうがうるさくなる。だから、誰にも触らせるなって」
源さんは、老眼鏡を外し、写真を膝の上に置いた。
「……あの工事のとき、何か出たのか」
「竹の筒が。重機で、砕かれたそうです」
源さんは、目を閉じた。扇子を握る手に、ぐっと力がこもるのが見えた。
「そうか」
長い沈黙のあと、源さんは、ゆっくりと目を開けた。
「お嬢さん。息をさせる道ってのはな、作るもんじゃねえ。通すもんだ。……親父の口癖だった」
「通す?」
「それ以上は、俺も知らねえ。ガキだったからな。だが、親父は、何でも帳面に書き残す人だった。蔵のどこかに、あの頃のもんがあるはずだ」
源さんは、膝に手をついて、よっこらしょと立ち上がった。
「何日か、くれ。探してみる」
「……ありがとうございます」
咲が深く頭を下げると、源さんは、ふん、と鼻を鳴らして、店の奥へ歩きかけた。それから、ふと足を止めて、振り返った。
「祭りの司会、いつもの声のでかい姉ちゃんと、大川んとこの嬢ちゃんでやるんだってな。慎吾の奴が、自慢しに来やがった」
「ええ」
「浴衣は、どうすんだ」
咲は、思わず目を瞬かせた。源さんは、それ以上は何も言わずに、のれんの奥へ消えていった。
◇
その夜、あんま堂のスタッフルームの明かりは、日付が変わっても消えなかった。
真島は、黒い筐体の前に座り、手順の最後の確認をしていた。画面の隅には、保守業者の技術者の名前と、達也からの短いメッセージが並んでいる。
──こっちは準備できた。いつでもいい。
壁の時計は、午前一時を回ったところだった。この時間なら、交差点の機械につながっている人は、ほとんどいない。
「じゃあ、みんな。最後の確認、いこうか」
真島は、両耳にイヤホンを差し込んだ。前面の五つのランプが、順に灯る。
──青龍より。全手順の検証を完了。実行可能。
──朱雀より。遮断後の挙動について、仮説を二つ追加。いずれも、検証には実行後の観測が必要。
──白虎より。管理者の承認、および関係機関の立ち会いを確認。実施を妨げる要件はない。
──玄武より。最適な実行時刻は、現在より二十分後。
四つの声が、淀みなく報告を終える。
真島は、最後の一つを待った。
黄龍のランプは、点いていた。だが、その瞬き方が、どこかおかしかった。
ほかの四つは、いつものように、規則正しく、同じ間隔で瞬いている。黄龍だけが、ほんの少し長く灯り、ほんの少し長く消える。まるで、ほかの四つとは違う、別の何かの拍子を数えているように。
「……黄龍くん?」
返事はなかった。
イヤホンの奥で、いつものざわめきが、かすかに鳴っていた。交差点のほうから。無数の誰かが、地面の下で、ひそひそと囁き合っている。
その囁きの波と、黄龍のランプの瞬きが、ぴたりと重なっていることに、真島はまだ気づいていなかった。
「……ま、いいか」
真島は、小さく息をついて、キーボードに指を置いた。
「始めよう」
黄龍のランプが、また一つ、ゆっくりと瞬いた。















