第四章 源流2

金曜日の昼下がり。大学の図書館の隅の席で、永輔はノートパソコンと睨めっこをしていた。
前期試験は、今日の午前で一段落していた。いつもなら、試験明けの解放感にまかせて、誰かと遊びに出かけているところだ。だが今日の永輔は、図書館の冷房の下で、もう三時間も同じ姿勢のまま、画面をスクロールし続けていた。
画面には、表計算ソフトの表が開かれている。日付、時刻、場所、症状、投稿の内容、共有された数。SNSや掲示板から拾い集めた、三番街の周りで「具合が悪くなった」という書き込みを、一件ずつ打ち込んでいるのだ。
光一から頼まれたのは、一昨日の夜のことだった。裕太から話を聞いて、永輔は二つ返事で引き受けた。
「……ここまでで、二百十三件、と」
永輔は、凝り固まった首を回した。隣の席では、裕太が手書きのメモの束を広げて、何かを書き写している。裕太は今朝から、試験の合間を縫って商店街を回り、店の人たちから直接話を聞いてきたのだ。
「裕太、そっちは何件になった?」
「四十二件。でも、ネットに書いてないのが、けっこうある。八百屋のおばあちゃんとか、年配の人はSNSなんかやってないから」
「だよな。……ちょっと、それ、地図に落としてみようぜ」
永輔は、商店街の地図を画面に呼び出し、二人分の記録を、一つずつ点にして打ち込んでいった。具合が悪くなった場所に、赤い点を一つ。
しばらくすると、地図の上に、はっきりとした模様が浮かび上がってきた。
赤い点は、三つの場所に固まっていた。交差点の周り。路地の入口の周り。駅前の、商店街の入口の周り。そして、その中でも、交差点の周りの点だけが、ほかの二つとは比べものにならないくらい、びっしりと密集していた。
「……あの機械のあるところ、だな」
裕太が、低い声で言った。永輔は黙って頷いた。三つの赤い塊の真ん中には、それぞれ、あの銀色の箱がある。
「交差点が、一番ひどい」
「ああ。……これ、大川さんと、真島さんに送っとくわ」
永輔は、地図と表をまとめて、メールを打った。送信ボタンを押してから、ふと、もう一つ開いていた画面に目を移した。
ありさのSNSの画面だった。
光一から頼まれた通り、ありさは昨日から、祭りの明るい話題を次々と投稿していた。司会の台本ができたこと。今年は中学生の女の子と二人で司会をすること。焼き鳥屋の親父さんが、今年は祭りの串を倍に増やすと張り切っていること。どれも、読んでいるだけで頬が緩むような、楽しい投稿ばかりだった。
だが、その共有の数は、どれも数件から、せいぜい数十件どまりだった。
永輔は、画面を切り替えた。一昨日の朝、駅前で人が倒れたときの投稿。『呪いがついに駅まで来た』。共有の数は、もう五千を超えていた。
「……なあ、裕太」
永輔は、二つの画面を並べて、ぼんやりと眺めた。
「怖い話は、あっという間に回るのにさ。もう大丈夫だよ、楽しみだよって話は、全然広がらないんだよな」
裕太が、手を止めて永輔の画面を覗き込んだ。
「……本当だ。桁が、二つも三つも違う」
「俺も、そうだったんだよ」
永輔は、自嘲するように笑った。
「あの写真、最初に上げたとき、『見えた人いる?』って、面白半分でさ。そしたら、一晩で、見たこともない数字になった。気持ちよかったんだよな、正直。みんなが反応してくれるのが」
永輔は、ありさの投稿の、小さな共有の数字を指でなぞった。
「でも、こっちは、誰も見向きもしない。……なんでだろうな。人って、怖いもんとか、腹立つもんのほうが、見たくなるのかな」
裕太は、何も言わなかった。ただ、少し考えてから、自分のスマートフォンを取り出して、ありさの投稿を一つ、共有した。
永輔は、それを見て、少しだけ目を丸くした。それから、小さく笑って、自分も同じ投稿を共有した。
画面の数字が、二つだけ増えた。
◇
その日の昼過ぎ、あんま堂のスタッフルームでは、真島が、黒い筐体の前に座っていた。
予約は、すべて別の日に振り替えてもらった。今日と明日は、誰にも邪魔されずに、この子たちと向き合うと決めていた。
「来た来た」
画面の隅に、新しい接続を知らせる表示が浮かぶ。達也が約束通り、朝一番で保守業者に話をつけてくれたのだ。業者の技術者が遠隔で立ち会い、保守用の裏口を通って、三台のルーターの記録が、真島の手元に次々と流れ込んでくる。
真島は、両耳にイヤホンを差し込んだ。
「じゃあ、みんな。よろしくね」
前面の五つのランプが、一斉に灯った。
イヤホンの中で、五つの声が、同時に話し始める。どれも合成音声だが、真島が一つ一つ、声の高さと話す速さを変えてある。五人の人間が、真島の両側に座って、てんでに意見を言い合っているような感覚だった。
──青龍より。解析手順を提案。三台の通信記録を時系列で突き合わせ、異常なデータの増加が最初に確認された時点を特定する。
──朱雀より。仮説を三つ提示。一、異常の発生源は単一。二、発生源は物理的な場所に依存する。三、異常は自己増殖する性質を持つ。
──白虎より。注意喚起。アクセス権限は、捜査協力の範囲に限定されている。利用者個人の通信内容には立ち入らないこと。
──玄武より。最短の照合順を算出。交差点の機器から着手することを推奨。
──黄龍より。……全体像の把握には、情報が不足している。引き続き観測を続ける。
「白虎くんは、相変わらず真面目だねえ」
真島は苦笑しながら、キーボードを叩いた。読み上げ音声が、常人には聞き取れないほどの速さで、数字の列を追いかけていく。
解析は、夕方まで続いた。
最初に答えが出たのは、時系列だった。
三台のルーターの中で、最初に異常が記録されたのは、交差点の一台だった。日付は、六月の終わり。そこから二週間ほど遅れて、路地の入口の一台に、ごく弱い異常が現れ始める。そして、駅前の一台は、つい三日前。
異常の強さも、同じ順番だった。交差点の一台が、ほかの二台とは比べものにならないほど強い。路地の入口は、その数分の一。駅前は、さらに弱い。
「……交差点から、染み出していってるんだ」
真島は呟いた。永輔から届いた地図とも、ぴたりと一致する。赤い点が一番びっしりと固まっていたのも、交差点だった。
次に答えが出たのは、通り道だった。
商店街のフリーWi-Fiは、いくつかのチャネルに分かれて電波を飛ばしている。客のスマートフォンがつながるチャネル。三台のルーター同士が、お互いに通信するためのチャネル。その中で、歪みが乗っていたのは、たった一つのチャネルを通ったデータだけだった。
そして、そのチャネルは、交差点の一台が客とつながるのに使っているものであり、同時に、三台のルーターが互いに連絡を取り合うための通り道でもあった。
「交差点で乗っかって、ルーター同士の連絡に紛れて、隣の機械に運ばれていく……」
真島は、椅子の背にもたれた。歪みは、ネットワークの中を、まるで水が低いほうへ流れるように、一本の水路を伝って広がっていたのだ。
──朱雀より。仮説一、および二を支持する。
──玄武より。対象チャネルの遮断により、拡散の大部分を抑制できる可能性。
──白虎より。遮断は、公共の通信サービスに影響を与える。実施には、管理者および関係機関の承認が必要。
──青龍より。遮断の手順を作成する。所要時間、約四時間。
──黄龍より。……
黄龍のランプが、ほかの四つより、ほんの少し長く瞬いていた。
「黄龍くん?」
──黄龍より。全体像の把握には、情報が不足している。発生源の性質が、観測範囲の外にある可能性を指摘する。
真島は、しばらく黙っていた。それから、小さく息をついて、別の画面を開いた。
永輔から届いた、もう一つのファイル。具合が悪くなったという書き込みと、それに添えられていた写真の一覧だ。永輔は、どの写真が、どんな言葉と一緒に、どれだけ共有されたかまで、丁寧に記録してくれていた。
真島は、そのデータを、自分が追いかけてきた写真のサイズの記録と、一枚ずつ突き合わせていった。
そして、もう一つ、奇妙なことに気づいた。
同じように共有された写真でも、歪みの増え方には、はっきりとした差があった。『呪い』『怖い』『最悪』『ふざけるな』。そういう、怯えや怒りの言葉と一緒に広まった写真ほど、乗っかっている何かが、ぐんぐん大きくなっている。逆に、ただ面白がっているだけの言葉や、心配して声をかけるような言葉と一緒に広まった写真は、増え方がずっと緩やかだった。
真島は、イヤホンを外した。
スタッフルームが、しんと静まり返る。
慎吾から聞いた、咲の言葉を思い出していた。何十人、何百人もの独り言を、瓶に詰めて煮詰めたようなもの。怒っているのも、泣いているのも、寂しがっているのも、全部ごちゃ混ぜになって、どろどろに濃くなっている。
「……怖がったり、怒ったりする気持ちを、餌にしてる」
真島は、ぽつりと呟いた。
「似たものに、引き寄せられて、膨らんでいくのかな」
答える声は、なかった。五つのランプが、静かに瞬いているだけだ。
真島は、窓のほうに顔を向けた。カーテンの向こうで、夕方の日差しが、ゆっくりと傾いていく。
わかったことは多い。歪みは、交差点で生まれている。一本のチャネルを伝って、広がっている。そのチャネルを塞げば、少なくとも広がるのは止められるかもしれない。
だが、一番肝心なことが、まだわからなかった。
「……なんで、交差点なんだろう」
三台のうち、なぜ、あの一台だけが特別なのか。六月の終わりに、あの場所で、何が起きたのか。
耳の奥で、あのざわめきが、かすかに鳴った気がした。駅前のほうから。いや、もっと遠く、交差点のほうから。無数の誰かが、地面の下で、ひそひそと囁き合っているような音。
真島は、スマートフォンを手に取った。宛先に、光一の名前を入れる。
──チャネルを特定しました。発生源は交差点の一台です。ただ、なぜあの場所なのかが、まだわかりません。六月の終わりに、あの交差点で何があったのか、ご存じありませんか。
送信のボタンを押すと、すぐに既読の印がついた。
返事は、数分後に届いた。
──ちょうど今、同じことを調べてる。洋子さんが、いいものを見つけてくれた。明日、詳しく話す。
読み上げ音声が、短い返事を告げ終える。真島は、小さく笑った。
「……さすが、会長」















