第三章 再起7

その夜、店を閉めた光一は、夏子と二人で杉本家を訪ねた。

あやめに会うのは、二日ぶりだった。毎日でも顔を見に行きたかったが、交差点のそばの店から自分が通えば、あれを連れて行ってしまうような気がして、足が向かなかったのだ。

「お父さん、お母さん、いらっしゃい」

居間に通されると、あやめがちゃぶ台の前で正座をして待っていた。前髪に、見慣れない向日葵のヘアピンが留まっている。その隣には、なぜかありさが座っていた。慎吾と洋子は、少し離れた場所で、どこか落ち着かない様子で麦茶をすすっている。

光一は、妙な空気を感じながら、あやめの向かいに腰を下ろした。

「元気そうだな、あやめ。……そのピン、どうしたんだ」

「ありささんにもらったの。お祭りの日に、浴衣に合わせるんだ」

「そうか。よく似合ってる」

光一は目を細めた。それから、ありさのほうを見て、軽く頭を下げた。

「ありさちゃん、わざわざ見舞いに来てくれたのか。ありがとうな」

「いえいえ! あの、それより、光一さん」

ありさが何か言いかけるのを、あやめが手で制した。

「ありささん、いい。私が言う」

あやめは、背筋を伸ばして、光一をまっすぐに見た。夏子が、光一の隣で、小さく息を呑むのがわかった。

「お父さん。私、お祭りの日、ありささんと一緒に、司会をやる」

光一の手の中で、麦茶のグラスが、かすかに揺れた。

「……なんだって?」

「司会。ありささんと二人で。もう決めたの」

あやめは、昼間ありさと洋子に話したことを、そのまま光一に伝えた。みんなが、あの写真の女の子を、呪いの写真の子だと思って怖がっていること。だから、自分が舞台に立って、もう大丈夫だと見せたいこと。

光一は、黙って聞いていた。聞きながら、胸の奥で、冷たいものと熱いものが、ぐるぐると渦を巻いていくのを感じていた。

「……だめだ」

あやめが話し終えると、光一は、低い声で言った。

「舞台は、交差点のすぐそばだ。お前は、あそこで倒れたんだぞ。また同じことになったら……」

「なんとかしてくれるんでしょ? お父さんたちが」

「なんとかできるかどうか、まだわからないんだ」

光一の声が、思わず強くなった。

「原因だって、まだはっきりしない。真島くんが調べてくれてるが、警察まで出てきて、それでも何もわかってないんだ。今日だって、駅前で人が倒れた。三台目だ。広がる一方なんだぞ。そんな場所に、お前を立たせられるわけがないだろう」

「……でも」

「だめだと言ったら、だめだ」

光一は、それ以上言わせないとでもいうように、首を振った。

居間に、重い沈黙が落ちた。あやめは、膝の上で拳を握りしめて、うつむいている。ありさが、心配そうにあやめの背中に手を添えた。夏子は、何か言おうとして、言葉を探しているようだった。

その沈黙を、慎吾が破った。

「……光一」

静かな声だった。咲のように鋭くもなく、会合のときのように張り詰めてもいない。ただ、何十年も隣で光一を見てきた男の、穏やかな声だった。

「四年前のこと、覚えてるか」

光一は、慎吾のほうを見た。

「祭りが廃止になって、商店街の連中がみんな、もう無理だ、年寄りばかりで人手もない、やめとけって言ってたときだ。お前だけが、やるって言った。周りがどれだけ止めても、聞かなかった」

慎吾は、麦茶のグラスを置いた。

「俺はあのとき、お前に聞いたよな。なんでそこまでするんだって。そしたら、お前、なんて答えた」

光一は、答えなかった。答えられなかった。覚えていたからだ。

「あやめが、祭りを楽しみにしてるからだ、ってな」

慎吾は、あやめのほうに目をやった。

「あの頃、あやめちゃんは小学生だった。毎年、浴衣着て、お前の店の前で綿あめ食べるのを楽しみにしてた。それがなくなるのが嫌で、お前は商店街じゅうに頭を下げて回ったんだ」

あやめが、顔を上げた。初めて聞く話だったのだろう。目を丸くして、父親を見つめている。

「そのあやめちゃんが、今、お前とおんなじことをしようとしてるんだぞ。周りがみんな怖がって、やめとけって言ってる中で、祭りを守るために、自分が前に立つって言ってる」

慎吾は、小さく笑った。

「親子だな、お前ら。頑固なところまで、そっくりだ」

光一は、何も言えなかった。

「なあ、光一。お前が守りたいのは、あやめちゃんか。祭りか」

慎吾は、光一の目をまっすぐに見た。

「どっちかじゃねえだろ。両方だろ」

光一の喉が、小さく鳴った。

「だったら、娘を舞台から引きずり下ろすのが、親父の仕事じゃねえ。娘が安心して舞台に立てるように、全部整えてやるのが、親父の仕事だ。……そういうのは、お前の一番得意なことじゃねえか、会長」

居間が、静まり返った。

風鈴が、ちりん、と鳴った。

光一は、ゆっくりと目を閉じた。

四年前、商店街の一軒一軒を回って頭を下げていた日々が、まぶたの裏によみがえる。断られても、笑われても、諦めなかった。全体を見て、誰に何を頼めばいいかを考え、一つずつ手を打っていった。あのときの自分は、焦ってなどいなかった。娘が楽しみにしている祭りを取り戻すために、ただ、やるべきことを、順番に、確実にやっていった。

いつから、それを忘れていたのだろう。

光一は、目を開けた。

そして、あやめを見た。向日葵のヘアピンを前髪に留めた、少しだけ大人びた顔の娘を。

「……あやめ」

「……うん」

「司会、やれ」

あやめの目が、大きく見開かれた。

「その代わり、条件がある。祭りまでに、俺が必ずあれを止める。止められなかったら、そのときは、祭りそのものをやめる。お前を危ない舞台には立たせない。それでいいな」

あやめは、しばらく父親の顔を見つめていた。それから、ぱっと顔を輝かせて、大きく頷いた。

「うん!」

ありさが「やったー!」と叫んで、あやめに抱きついた。洋子が目元を押さえ、夏子が、そっと光一の背中に手を置いた。

慎吾は、何も言わずに、薄い麦茶をすすっていた。その口元が、わずかに緩んでいる。

光一は、深く息を吸った。

頭の中で、ばらばらに散らばっていた情報が、静かに並び始めていた。真島の報告書。咲の見立て。増えていく被害。広がる噂。残された日数。誰が何を知っていて、誰に何ができるのか。

もう、焦りはなかった。

「慎吾」

「おう」

「明日から、出店者と業者を一軒ずつ回ってくれ。キャンセルした店にも、残ってくれてる店にもだ。今わかってることを、正直に話して、期限の日まで待ってくれと頼む。連絡と調整は、全部お前に任せる」

「任せとけ」

「咲ちゃんには、俺から電話する。あの交差点を、一度ちゃんと見てもらいたい。何が起きてるのか、咲ちゃんの目で確かめてほしい」

光一は、指を折りながら、次々と言葉を継いでいく。

「真島くんには、引き続き調べてもらう。警察が動いてるなら、真島くんのところにも話が行くはずだ。そっちは真島くんに任せる。……それから、洋子さん」

「は、はい」

急に名前を呼ばれて、洋子が背筋を伸ばした。

「夏子から聞きました。あの交差点に、昔、井戸があったって話。おばあさんのアルバム、探してもらえませんか。どんな小さなことでもいい。あの場所のことが知りたい」

「わかりました。明日、物置をひっくり返してみます」

洋子は、力強く頷いた。

「ありさちゃん」

「はいっ!」

「あやめと二人で、祭りの準備を進めてくれ。台本も、衣装も。それから、店のSNSで、祭りの明るい話を発信してほしい。怖い噂ばかりが出回ってる今だからこそ、楽しみにしてる人の声が必要だ」

「任せてください!」

「それから……あやめ」

「なに?」

「さっき、紙のポスターは大丈夫だって言ってたな」

あやめは、目を丸くした。ありさが話したのかと、ちらりと隣を見る。ありさは、えへへと照れくさそうに頭をかいた。

「うん。壁に貼ってあるやつ。あれは、見ても全然、気持ち悪くならないの」

「……紙は、大丈夫。画面は、だめ」

光一は、顎に手を当てて、壁のポスターを見上げた。

「写真そのものじゃない。データのほうに、何かが乗ってるってことか。……真島くんに伝えておく。よく気づいたな、あやめ」

あやめは、少し照れくさそうに笑った。

光一は、最後に、階段のほうを振り返った。

「裕太くん。そこにいるんだろう」

階段の陰から、慌てたような物音がして、裕太がおずおずと顔を出した。晩飯の買い出しから戻って、上がるに上がれずにいたらしい。

「す、すみません、立ち聞きするつもりじゃ……」

「いい。ちょうどよかった」

光一は、裕太を手招きした。

「君と、永輔に頼みたいことがある。街のどこで、誰が、どんなふうに具合を悪くしたのか。それを、できるだけ細かく集めてほしい。君は足で回って、商店街の人たちから直接話を聞いてくれ。永輔には、ネットのほうを頼む。あいつは、そういうのが得意だろう」

裕太は、驚いたように目を瞬かせた。それから、ぎゅっと拳を握って、頷いた。

「……はい。永輔にも、伝えます。あいつ、きっと、やるって言います」

光一は、頷いた。

居間にいる全員の顔を、ゆっくりと見回す。慎吾。洋子。ありさ。夏子。裕太。そして、あやめ。

四年前と同じだ。一人では、祭りはできない。

「期限まで、あと八日だ」

光一は、静かに言った。

「皆、力を貸してくれ」

その声は、もう少しもかすれていなかった。


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