第三章 再起6

その日の午後、杉本酒店の店先に、鮮やかな色のビーズがじゃらりと鳴った。
「こんにちはー! あやめちゃん、いるー?」
帳場で伝票の束を整理していたあやめは、ぱっと顔を上げた。ガラス戸の向こうで、ゆるく編んだ二本のおさげを揺らしながら、ありさが手を振っている。片手には、駅前の雑貨屋の紙袋。もう片方の腕には、分厚い紙の束を抱えていた。
「ありささん!」
「やっほー。お見舞いに来たよ。今日、シフト休みだったから」
ありさは店に入るなり、あやめの顔を両手で包むようにして覗き込んだ。
「顔色、よくなったね。よかったあ。咲から倒れたって聞いたとき、私、心臓止まるかと思ったんだから」
「もう大丈夫だよ。洋子さんのご飯、毎日食べすぎてるくらい」
「あはは、洋子さんのご飯、おいしいもんね」
ありさはそう言って笑い、それから、ふと首を傾げた。
「あれ? あやめちゃん、前髪、ちょっと切った?」
あやめは、目を丸くした。昨日の夜、伸びてきた前髪が目にかかるのが気になって、洋子に借りたはさみで、ほんの数ミリだけ切ったのだ。慎吾も洋子も、誰も気づかなかった。
「……なんでわかったの?」
「わかるよー。ちょっと眉毛が見えるようになって、かわいい」
あやめは、思わず頬を緩めた。やっぱり、ありささんだ。人のことには、誰よりも早く気づく。
そのとき、店の奥で、ガシャン、と派手な音がした。
「うわっ!」
空き瓶のケースを運んでいた裕太が、ありさの姿を見るなり、手元を狂わせてケースを床に落としたのだった。幸い、瓶は一本も割れていない。裕太は真っ赤な顔で、慌ててケースを拾い上げた。
「あ、あ、ありささん! こ、こんにちは!」
「裕太くんだー。こんにちは。大丈夫? すっごい音したけど」
「だ、大丈夫です! 全然! ちょっと、手が滑っただけで!」
裕太はケースを抱えたまま、なぜか直立不動になっている。ありさは心配そうに裕太の顔を覗き込んだ。
「裕太くん、顔、真っ赤だよ? また重いの運んでたの? 熱中症、気をつけないとだめだよ」
「は、はい! 気をつけます!」
あやめは、伝票の束で口元を隠して、肩を震わせた。裕太が助けを求めるようにこちらを見たが、あやめは知らん顔で、そっぽを向いた。
「裕太さん、そのケース、倉庫だよね。ありささんのお茶、私が入れとくから、ごゆっくり」
「あやめちゃん……!」
裕太の情けない声を背中に聞きながら、あやめはありさの手を引いて、二階への階段を上っていった。
◇
居間のちゃぶ台を囲んで、洋子が冷たい麦茶と、慎吾が買い置いていたどら焼きを出してくれた。ありさが持ってきた紙袋の中身は、小さな向日葵の飾りがついたヘアピンだった。
「夏祭りに、浴衣に合わせたらかわいいかなって」
「わあ……ありがとう、ありささん」
あやめはヘアピンを手のひらに載せて、しばらく眺めていた。それから、ありさの膝の上の紙の束に目をやった。
「それ、司会の台本?」
「そう! やっと完成したの。見る見る?」
ありさは嬉しそうに台本を広げた。開会の挨拶、商工会長の挨拶の紹介、出店の案内、盆踊りの進行、子ども向けの抽選会。手書きの赤い文字で、あちこちに注意書きが入っている。「ここで笑顔!」「噛まないように!」「深呼吸!」。
「それでね、オープニングで、ちょっとだけ歌おうと思ってるの。三番街の音頭。光一さんには、まだ内緒なんだけど」
「ありささん、歌うまいもんね」
「えへへ。毎晩お風呂で練習してるから」
ありさが小さく鼻歌を歌い始めると、台所で洗い物をしていた洋子が、「あら、懐かしい」と言って、一緒に口ずさんだ。あやめも、つられて小さく体を揺らした。
窓の外から、蝉の声が降ってくる。風鈴が、ちりんと鳴った。
ひとしきり歌い終わると、ありさは、ふっと声を落とした。
「……でも、今年は、お客さん、来てくれるかなあ」
台本の端を、指先でいじりながら、ありさは言った。
「出店のキャンセルも、けっこう出てるんだって。咲が言ってた。みんな、怖がってるんだよね。あの写真の噂」
あやめの手の中で、向日葵のヘアピンが、かすかに光った。
あの写真。浴衣を着て、少し照れたように笑っている、自分の写真。
「……ねえ、ありささん」
あやめは、居間の壁に目をやった。そこには、慎吾が店先に貼るために刷ってきた夏祭りのポスターの、余った一枚が貼られていた。商工会のホームページに載っているのと、同じ写真だ。
あやめは、それをじっと見つめた。
不思議なことに、紙に刷られたほうの写真を見ても、あの気持ち悪さは、少しも感じなかった。スマートフォンやパソコンの画面で見たときには、あんなに歪んで、うねって見えたのに。紙の上の自分は、ただ、少し照れくさそうに笑っているだけだった。
「……紙のは、大丈夫なんだ」
「え?」
「ううん、なんでもない」
あやめは首を振り、それから、ありさのほうに向き直った。
「みんなが怖がってるの、私の写真のせい、だよね」
「そんなことないよ! あやめちゃんは何も悪くないもん!」
ありさが慌てて身を乗り出す。あやめは、小さく笑って首を振った。
「わかってる。永輔さんにも、私、同じこと言ったから。悪いのは、あの気持ち悪い歪みのほう。……でも、みんなの頭の中じゃ、あの写真の女の子は、呪いの写真の子なんだよ」
あやめは、膝の上でヘアピンをぎゅっと握った。
「だからね。私、決めたの」
ありさと洋子が、あやめを見た。
「お祭りの日に、私、舞台に立ちたい。あの写真の女の子は、ほら、こんなに元気だよって。もう大丈夫だよって。みんなの前で、ちゃんと見せたいの」
あやめは、まっすぐにありさを見つめた。
「ありささん。私も、司会、一緒にやっちゃだめ?」
居間が、しんと静まり返った。
洋子が、何か言いかけて、口をつぐむ。台所の水道から、ぽたりと一滴、水が落ちる音がした。
次の瞬間、ありさが、ちゃぶ台越しにあやめに飛びついた。
「やろう! 一緒にやろう!」
「わっ、ありささん、麦茶こぼれる!」
「すっごくいい! あやめちゃんと二人なら、絶対楽しいよ! 台本、二人用に書き直さなきゃ! あ、掛け合いとか入れちゃう? お祭りのクイズとか!」
ありさは、あやめをぎゅうぎゅうと抱きしめたまま、子どものようにはしゃいでいる。あやめは、ありさの腕の中で、くすぐったそうに笑った。
「……あやめちゃん」
洋子が、そっと声をかけた。その顔には、嬉しさと、心配と、それから少しの誇らしさが、ないまぜになって浮かんでいた。
「でもね。あの交差点の、すぐそばの舞台なのよ。また、具合が悪くなったら……」
「わかってる。だから、それまでに、なんとかしてもらうの」
あやめは、ありさの腕の中から顔を出して、きっぱりと言った。
「お父さんたちが、なんとかしてくれる。慎吾さんも、咲さんも、真島さんも、みんなが動いてくれてるんでしょ? だったら、私は、私にできることをするの」
ありさが、あやめを抱きしめる腕に、少しだけ力を込めた。
「大丈夫だよ、あやめちゃん」
ありさは、あやめの頭をぽんぽんと撫でた。
「私、あの歪み、なーんにも見えないんだ。だからさ、もしあやめちゃんが舞台の上で怖くなったら、私がずっと手、握っててあげる。見えない私が隣にいたら、きっと半分こくらいにはなるよ」
「……なにそれ」
あやめは笑った。笑いながら、ほんの少しだけ、目の奥が熱くなった。
「よし。じゃあ、まずは光一さんに言わなきゃだね」
ありさが、ぱっと顔を上げた。洋子が、困ったように眉を下げる。
「そうね。……光一さん、きっと反対するわよ」
「だよね」
あやめは、ヘアピンを前髪に差し込んだ。向日葵の飾りが、窓から差し込む夕方の光を受けて、小さく光った。
「だから、私が自分で言う」
階段の下から、慎吾の「おーい、晩飯の買い出し行くぞー」という声が聞こえてきた。それに続いて、まだどこか上ずった、裕太の「は、はい!」という返事も。
ありさが、くすくすと笑った。
「裕太くん、ほんとに大丈夫かなあ。今日、ずっと顔赤かったよね。夏バテかな?」
あやめと洋子は顔を見合わせ、それから、同時に、深いため息をついた。















