第三章 再起5

水曜日の朝。駅の改札を抜けると、むっとした熱気が顔に張りついた。

「……あっつ。まだ八時だぞ」

永輔は、手にした下敷きで顔をあおぎながら、隣を歩く裕太を見た。裕太は、片手に単語帳、もう片方の手にペットボトルの麦茶を握りしめて、ぶつぶつと何かを唱えている。

「おい、裕太。歩きながら暗記すんなって。転ぶぞ」

「……今日の一限、教育心理学なんだよ。お前こそ、ちゃんとやってきたのか」

「やったやった。お前のノートで」

永輔は鞄の中から、くたびれたノートを一冊取り出して、裕太の胸に押しつけた。

「ほら。ちゃんと返したからな。約束通り」

裕太は目を丸くして、ノートと永輔の顔を見比べた。

「……本当に返した」

「なんだよその顔。俺だってたまには約束守るって」

永輔は照れくさそうに笑って、前を向いた。裕太は少しだけ口の端を上げ、ノートを鞄にしまった。

大学へ向かうバスの乗り場は、駅前のロータリーを抜けた先、商店街の入口のすぐそばにある。朝のこの時間は、通勤や通学の人の波が、アーケードの入口の前を途切れることなく流れていく。

その人波の中で、ふいに、誰かが足を止めた。

スーツ姿の若い男だった。片手にスマートフォンを持ったまま、アーケードの入口の脇で、ぴたりと動かなくなっている。後ろを歩いていた人がぶつかりそうになり、迷惑そうに避けていく。

「……ん?」

永輔が足を止めた。男は、両手で耳を押さえていた。そして、そのまま、ゆっくりと膝から崩れ落ちた。

「おい!」

永輔は、考えるより先に走り出していた。

「大丈夫ですか! 聞こえますか!」

男の肩を支えると、その体は、この暑さの中で冷たく、腕にはびっしりと鳥肌が立っていた。永輔の背中を、冷たいものが走った。終業式の日、腕の中で冷たくなっていったあやめの感触が、一瞬でよみがえる。

「……うるさい……誰だ……みんな、いっぺんに……」

男は焦点の合わない目で、うわごとのように呟いている。

同じだ。あやめと、同じだ。

「裕太! 救急車!」

「わかった!」

裕太がスマートフォンを取り出して電話をかける。周りに、じわじわと人だかりができ始めた。誰かが「熱中症じゃない?」と言い、誰かが「例のやつじゃないの」と囁く。スマートフォンを掲げて、写真を撮ろうとする者までいた。

「撮んなよ!」

永輔は、思わず声を荒らげていた。カメラを向けていた学生が、ぎょっとしたように手を下ろす。

「……撮って、どうすんだよ。面白がって、上げんのかよ」

自分の声が震えているのがわかった。数週間前の自分が、そこに立っていた。

救急車が来るまでの十分ほどを、永輔は男の肩を支えたまま過ごした。男は救急隊員に担架に乗せられる頃には、少しだけ意識がはっきりしてきたようで、かすれた声で「すみません」と繰り返していた。

サイレンの音が遠ざかっていく。人だかりが、ゆっくりとほどけていく。

永輔は、その場にしゃがみ込んだまま、大きく息を吐いた。

「……永輔。大丈夫か」

裕太が、隣にしゃがんだ。その顔色が、少し悪い。

「俺は平気。……お前こそ、顔、青いぞ」

「……うん」

裕太は、アーケードの入口の上のほうを見上げていた。永輔もつられて目をやる。入口の柱の陰に、見覚えのある銀色の箱が取りつけられていた。交差点にあるのと、路地の入口にあるのと、同じ型の機械。

「……なんか、あの辺りだけ、空気が揺れて見える」

裕太が、目をこすりながら言った。

「陽炎みたいに。……さっき、あの人が倒れる前から、ずっと」

永輔は、目を凝らした。何も見えない。いつもの朝の、駅前の景色があるだけだ。

「俺には、何も見えない」

永輔は、悔しそうに唇を噛んだ。

「……何も見えないのに、目の前で人が倒れるんだもんな。あやちゃんのときも、今も」

「永輔……」

「なあ、裕太。俺、何かできること、ないのかな」

永輔は、立ち上がって、手のひらの砂を払った。

「見えなくてもさ。何か」

裕太は少し考えてから、ポケットのスマートフォンに目を落とした。

「……さっきの、もう上がってるかもな」

裕太の言葉に、永輔はスマートフォンを取り出し、SNSを開いた。案の定だった。

『駅前の商店街の入口で人が倒れてた。例の呪いがついに駅まで来た』

『やばい、三番街だけじゃなかったのか』

『もう駅も使えないじゃん、怖すぎ』

どれも、ほんの十数分前の投稿だった。それなのに、もう何百という数で共有されている。人だかりの中で誰かが撮ったらしい、ぼやけた写真まで添えられていた。

永輔は、画面をじっと見つめた。

「……早えな」

「え?」

「こういうの。広がるの、めちゃくちゃ早い」

永輔の声は、静かだった。かつて自分が、面白半分で写真を上げたときも、きっと同じ速さで広がっていったのだろう。

バスのアナウンスが流れた。二人は顔を見合わせ、慌てて乗り場へと走った。

◇

同じ頃、駅から少し歩いた商店街の一角、あんま堂・まろの裏口で、真島は鍵を開ける手を止めていた。

遠ざかっていく救急車のサイレン。駅前のほうから聞こえてくる、人々のざわめき。それに混じって、もう一つ、別の音があった。

耳鳴りにも似た、細かな、無数の囁き声。

交差点の機械箱のそばで、初めて聞いたあの音だった。それが今、真島の店のすぐ近くで、朝の蝉の声の底を這うように、かすかに響いている。

真島は、白杖を握る手に、わずかに力を込めた。

「……三台目、だね」

誰にともなく呟いて、真島は扉を開けた。

スタッフルームに入り、PCの電源を入れる。部屋の隅の黒い筐体は、音ひとつ立てずに目を覚まし、前面の五つのランプが、順に淡く灯っていった。

真島は、ソファーに腰を下ろす前に、スマートフォンを取り出した。メールの画面を開き、宛先に、見慣れた名前を入れる。

件名は空白のまま、本文に、一行だけ打ち込んだ。

──駅前、三台目。そろそろ、来る気になった?

送信のボタンの上で、真島の指が一瞬だけ止まった。それから、真島は小さく息をついて、その一行を消した。

画面を閉じ、スマートフォンをテーブルに置く。

「……向こうから来ないと、意味がないか」

いつの間にか足元に来ていたろくすけが、真島のふくらはぎに、そっと体をこすりつけた。真島は、その白い背中を、指先でゆっくりと撫でた。


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