第三章 再起4

期限まで、あと十三日。
その朝、県警本部のサイバー犯罪対策課は、いつになくざわついていた。
「須藤さん、市役所からの連絡、正式に回ってきました。うちの案件です」
後輩の捜査員がタブレットを抱えて駆け寄ってくる。須藤達也は、まだ湯気の立つコーヒーを机に置き、無言でその画面を受け取った。
市のホームページ。観光案内のページ。市立図書館のお知らせ。どれも、ごくありふれた公共施設のサイトだ。そこに掲載された写真のいくつかが、昨日の午後から「歪んで見える」「見ると気分が悪くなる」という苦情とともに、市役所の窓口に次々と寄せられているのだという。
「市の情報システム課が調べたところ、サーバー上の画像ファイルのサイズが、元のデータと合わないそうです。何者かに改ざんされた可能性がある、と」
「改ざん、か」
達也は、画面をスクロールしながら、低く呟いた。歪んでいる、と言われた写真を、一枚ずつ確かめていく。夏祭りの後援を告知するページの写真。商店街の風景写真。どれも、達也の目には、ただの写真にしか見えなかった。
「お前、これ、歪んで見えるか」
「いえ、全然。……でも、課の何人かは、気持ち悪いって言って、席を立ってました」
「……そうか」
達也は眉間にしわを寄せた。
ここ数週間、ネットで出回っている「歪む心霊写真」の噂は、達也の耳にも入っていた。くだらない都市伝説だと、気にも留めていなかった。だが、それが公共施設のサーバーに及んだとなれば、話は別だ。
その日から、課を挙げての解析が始まった。
サーバーのアクセスログを洗う。不正なログインの痕跡を探す。改ざんされたファイルを一つ一つ取り出し、元のデータと突き合わせる。
だが、三日経っても、何も出てこなかった。
不正アクセスの痕跡は、どこにもない。ウイルスも、仕込まれたプログラムも見つからない。何より奇妙なのは、改ざんされたはずのファイルの中身を、元のデータと一つ残らず比較しても、どこにも違いが見つからないことだった。それなのに、ファイルのサイズだけが、確かに大きくなっている。
「……ありえないだろ、こんなの」
深夜の課室で、後輩の一人が、モニターを前に頭を抱えた。
「中身が同じなのに、サイズだけ違うなんて。計算が合わないじゃないですか」
達也は答えなかった。腕を組み、壁一面に貼り出した資料を、じっと睨みつけている。
被害を受けたサイトに、共通点は一つしかなかった。どのページにも、三番街商店街の夏祭りに関わる写真や、商工会のホームページへのリンクが載っている。そして、市のサイトの保守を請け負っている業者は、三番街のフリーWi-Fiの設置と保守を請け負った業者と、同じ会社だった。
資料の端に、一行の記載があった。
三番街商店街商工会ホームページ 管理者 真島若人。
達也は、深く、長いため息をついた。
◇
あんま堂の受付のドアが開いたのは、その翌日の、昼の休憩時間だった。
「いらっしゃい。……あれ」
スタッフルームから顔を出した真島は、ドアの前に立つ人物の足音と、整髪料のかすかな匂いに、首を傾げた。
「珍しいね。こんな時間に、そんな硬い足音で来るなんて」
「県警本部サイバー犯罪対策課の、須藤だ」
達也は、懐から警察手帳を取り出して、真島の前に掲げた。真島の目には、黒い革の塊がぼんやりと見えるだけだったが、その声の調子で、何をしているのかはすぐにわかった。
「三番街商店街商工会のホームページ管理者として、話を聞かせてもらいたい」
真島は、しばらくきょとんとしていた。それから、こらえきれないように、くすっと笑った。
「……たっちゃん。それ、本気でやってる?」
「仕事中だ。その呼び方はやめろ」
「はいはい。じゃあ、須藤さん。どうぞ、奥へ」
真島がスタッフルームのソファーを勧めると、達也は仏頂面のまま腰を下ろした。真島はコーヒーを二つ淹れ、一つを達也の前に置いて、自分も向かいに座った。
「で? 公式の事情聴取ってことは、市役所の件かな」
達也の眉が、ぴくりと動いた。
「……なんで知ってる」
「三番街じゃ、もう噂になってるよ。市のホームページの写真まで歪んだって」
真島は、何でもないことのように言って、コーヒーをすすった。達也はしばらく真島の顔を見つめていたが、やがて、低い声で切り出した。
「単刀直入に聞く。お前が、やったのか」
真島は、カップを持つ手を止めた。
「やってないよ」
あっさりと、真島は答えた。
「まあ、やろうと思えば、できなくはないけどね」
「……」
「でもさ、たっちゃん……じゃなくて、須藤さん。三日も調べて、痕跡、何も出てこなかったでしょ?」
達也の顔が、さらに険しくなる。真島は、カップをソーサーに戻し、肩をすくめた。
「僕がやるなら、そもそも疑われるような痕跡なんて、最初から残さないよ」
「……お前のそういうところが、一番怪しいんだよ」
達也は苦々しげに吐き捨て、ソファーの背にもたれた。真島は楽しそうに笑う。
「冗談だよ。本当にやってない。……それに、これ、たぶん、たっちゃんたちの道具じゃ捕まえられないと思う」
「どういう意味だ」
「中身は一つ残らず同じなのに、サイズだけが増えてる。そうでしょ?」
達也が、ぎくりとしたように真島を見た。それは、課の外には一切漏らしていない情報だった。
「……なんで、それを」
「僕も、同じものを、もう半月近く追いかけてるから」
真島は、静かに言った。
「商工会のホームページで、最初に歪んだ写真が見つかったのは、半月前。僕は管理者だからね、すぐに調べ始めたよ。どの経路で、何が起きてるのか。……少なくとも、どこで『それ』が乗っかってるのかは、もう見当がついてる」
達也は、身を乗り出した。
「どこだ」
真島は答えず、コーヒーカップの縁を、指でゆっくりとなぞった。
「……おい、真島。どこだって聞いてるんだ」
「それ、なんで先に言わなかったんだ、って顔してるね」
「当たり前だ。お前、そんな大事なことを……」
「だって、聞かれなかったから」
真島は、にっこりと笑った。
達也は、何か言い返そうとして口を開き、それから、ぐっと奥歯を噛みしめた。拳がわずかに震えている。真島は、その様子を、音と気配だけで正確に感じ取っていた。
「心配しなくても、ちゃんと協力はするよ。三番街は、僕の街でもあるからね」
真島は、ふっと真面目な顔になった。
「でも、ひとつだけ言っておく。これは、たっちゃんたちがいつも相手にしてる、どこかの誰かが仕掛けたサイバー攻撃とは、たぶん違う。犯人を探しても、たぶん、どこにもいない」
「……犯人がいない、だと?」
「うん。だから、いつものやり方じゃ、どこまで行っても行き止まりだと思う」
達也は、長い間、黙っていた。
やがて、何も言わずに立ち上がり、手つかずのコーヒーをそのままに、ドアのほうへ歩き出した。ノブに手をかけたところで、ポケットの中のスマートフォンが短く震える。
達也は画面に目を落とし、それから、苦い顔でもう一度真島のほうを振り返った。
「……駅側の商店街の入口でも、写真が歪んだって通報が入った」
「そう」
真島は、驚かなかった。ただ、静かに頷いただけだった。
「三台目、か」
「なに?」
「なんでもないよ。……お仕事、頑張ってね、須藤さん」
達也は、舌打ちを一つ残して、ドアの向こうに消えた。整髪料の匂いと、硬い足音が、路地の喧騒の中に遠ざかっていく。
静かになったスタッフルームで、真島は、達也が手をつけなかったコーヒーカップを引き寄せた。いつの間にか、ソファーの端に、白くて柔らかい温もりが丸くなっている。
「ろくすけ。どう思う?」
ろくすけは、片目だけを開けて、真島を見上げた。
「プライドの高いたっちゃんが、頭を下げに来るまで。……二日ってとこかな」
ろくすけは、あくびを一つして、また目を閉じた。
真島はくすりと笑い、冷めたコーヒーを一口すすった。その笑みは、すぐに消えた。
期限まで、あと九日。
窓の外では、蝉の声に混じって、耳鳴りのような細かなざわめきが、昨日よりも少しだけ、近くに聞こえていた。















