第三章 再起3

同じ夜、杉本家の居間には、夏子が来ていた。
「はい、あやめ。着替えと、充電器と、それから宿題。夏休みの宿題、ちゃんとやるのよ」
「えー……お母さん、それ持ってこなくてよかったのに」
紙袋の中身を覗き込んで顔をしかめるあやめに、夏子は「だめよ」と笑った。洋子が冷えた麦茶を三つ運んできて、ちゃぶ台を囲んだ三人の前に置く。
「夏子さん、ゆっくりしていって。うちの人、今夜は商工会の会合のあと、咲ちゃんのところに寄ってくるって言ってたから」
「ごめんなさいね、洋子さん。あやめのこと、すっかりお世話になっちゃって」
「なに言ってるの。こっちは楽しくて仕方ないのよ。あやめちゃん、うちの子にしたいくらい」
「洋子さん、昨日も同じこと言ってた」
あやめが呆れたように言うと、洋子と夏子は顔を見合わせて笑った。開け放した窓から、夜風と一緒に、どこかの家の風鈴の音が流れ込んでくる。
「顔色、ずいぶんよくなったわね」
夏子は娘の頬にそっと手を当てた。あやめはくすぐったそうに身をよじったが、嫌がりはしなかった。
「うん。洋子さんのご飯、おいしいから」
「あら、お母さんのご飯は?」
「……お父さんのご飯のほうがおいしい」
「まあ、この子ったら」
夏子が大げさに肩を落とすと、あやめはくすくすと笑った。それから、ふっと笑みを引っ込めて、麦茶のグラスを両手で包んだ。
「……ねえ、お母さん。お父さん、大丈夫?」
夏子は、少しだけ言葉に詰まった。
「大丈夫よ。慎吾さんも、咲ちゃんもついてるから」
「……そっか」
あやめはグラスの中の氷を見つめた。しばらく黙っていたが、やがて、ぽつりと言った。
「あのね。倒れたとき、変な夢、見たんだ」
「夢?」
「うん。夢なのかな、よくわかんないけど」
あやめは、言葉を探すように、ゆっくりと話し始めた。
「どこかの、すごく深い穴の底にいたの。周りは、ごつごつした石の壁で、じめじめしてて、ひんやりしてて。上を見上げたら、空が見えた。丸い空。すごく小さくて、すごく遠いの。手を伸ばしても、全然届かないくらい」
夏子と洋子は、黙って聞いていた。
「それでね、その丸い空の上のほうから、たくさんの人の声が降ってくるの。笑ってる声とか、怒ってる声とか、泣いてる声とか。何を言ってるのかは、全然わからないんだけど、とにかくいっぱい。ずっと、ずっと、降ってくるの」
あやめは、小さく身震いした。
「交差点で聞こえたのと、たぶん、同じ声だった」
居間に、しばらく沈黙が落ちた。風鈴が、ちりん、と鳴る。
「……まるで、井戸の底ね」
洋子が、ぽつりと呟いた。
自分で言ってから、洋子は、はっとしたように口元に手を当てた。
「洋子さん?」
夏子が首を傾げる。洋子は、どこか遠くを見るような目をしていた。
「……今、急に思い出したの。子どもの頃、おばあちゃんから聞いた話」
洋子は、麦茶のグラスを置き、記憶の糸をたぐるように、ゆっくりと話し始めた。
「おばあちゃんね、あの交差点のあたりで生まれ育った人だったのよ。そのおばあちゃんが言ってたの。昔、あのあたりには、大きな井戸があったって」
「井戸……?」
「ええ。町内の人たちが、毎朝毎晩、そこへ水を汲みに来てたんですって。それで、水を汲みながら、井戸端で、みんないろんな話をしたって。嬉しいことも、悲しいことも、愚痴も、泣き言も、誰にも言えないような打ち明け話も。おばあちゃんも、若い頃はよくそこで、近所のおばさんたちと日が暮れるまでしゃべってたって、懐かしそうに話してたわ」
洋子は、少し首を傾げた。
「確か、戦争の頃に、水が枯れてしまったんだったかしら。それで、いつの間にか埋められて……そのあとのことは、よく覚えてないの。おばあちゃん、他にも何か言ってた気がするんだけど……」
洋子は額に手を当て、思い出そうとしているようだったが、やがて、困ったように笑った。
「だめね。もう何十年も前の話だもの」
「その井戸があったのって、交差点の、どのあたりなんですか?」
夏子が尋ねた。その声が、自分でも驚くほど硬くなっているのに、夏子は気づいた。
「さあ……そこまでは。でも、物置のどこかに、おばあちゃんの古いアルバムがあったはずよ。今度、探してみようかしら」
「お願いします、洋子さん」
夏子は、思わず身を乗り出していた。洋子は少し驚いたように夏子を見て、それから、真剣な顔で頷いた。
あやめは、二人のやり取りを、黙って見ていた。手の中の麦茶のグラスが、いつの間にか、ひどく冷たくなっていた。
開け放した窓の外、路地の入口のほうから、かすかな音が聞こえた気がした。ざわざわと、大勢の人が遠くで囁き合っているような音。
あやめは、そっと窓の外に目をやった。夜の路地には、誰もいない。街灯の下に、電柱の陰の、銀色の小さな箱が見えるだけだ。
「……あやめ?」
「ううん。なんでもない」
あやめは首を振り、窓を、静かに閉めた。















