第三章 再起2

ネミッサの前まで来ると、看板の明かりの消えたドアの前に、見慣れたおさげ髪がしゃがみ込んでいた。

「あ、咲、おかえりー! ……って、あれ? 光一さんと慎吾さんも?」

ありさだった。生成りのカーディガンの膝の上に、紙の束を抱えている。仕事帰りに寄ったものの、店が閉まっていたので、ここで待っていたらしい。

「ありさ。あんた、いつからいたの」

「うーん、三十分くらい? 会合の日だって忘れててさ。でもちょうどよかった。見て見て、祭りの司会の台本、できたんだよ! 今年はね、ちょっとした仕掛けも考えてて……」

ありさは得意げに紙の束を掲げかけて、咲の後ろに立つ光一の顔を見た。そして、ゆっくりと腕を下ろした。

「……光一さん、大丈夫?」

「ああ。大丈夫だよ、ありさちゃん」

光一はそう言って笑った。その笑顔を見て、ありさは何も言わなくなった。

咲は無言で鍵を開け、裸電球に明かりを灯した。赤レンガの壁に、サックス奏者のモノクロ写真がぼんやりと浮かび上がる。咲はレコードを一枚選んで針を落とし、カウンターの中に入った。いつもなら首元に締める蝶ネクタイは、今夜は締めなかった。

慎吾がカウンターの端に、光一がその隣に腰を下ろす。ありさは少し迷ってから、光一の反対隣にちょこんと座った。

「慎吾さんは、いつもの薄いハイボールね。光一さんは?」

「……ウイスキーを。ストレートで」

咲は黙ってグラスを置き、琥珀色の液体を注いだ。光一はそれを一息にあおり、空になったグラスを、とん、とカウンターに置いた。

「もう一杯」

「光一」

慎吾がたしなめるように名前を呼ぶ。光一は、グラスを見つめたまま言った。

「あの写真を上げたのは、俺なんだ」

低い声だった。

「あやめが嫌がるのも聞かずに、親バカ丸出しで、センターに据えて、店のパソコンから上げた。それが、街じゅうに広まって、あやめ自身が倒れた。……笑えるだろ」

「光一、それはお前のせいじゃ……」

「祭りだってそうだ。俺が復活させようなんて言い出さなけりゃ、皆に余計な苦労をかけることもなかった。フリーWi-Fiだって、俺がしつこく言い続けて入れたんだ。全部、俺が始めたことだ。だから、俺がなんとかしなきゃならない」

光一は顔を上げた。その目には、さっきまでの空元気の明るさはもうなかった。ただ、ひどく疲れた男の目だった。

「俺一人で、なんとかする。お前らに、これ以上迷惑は……」

ガン、と鈍い音がした。

咲が、手にしていたシェイカーを、カウンターに叩きつけるように置いた音だった。レコードの音楽だけが、場違いに軽やかに流れ続ける。

「いい加減にしなさいよ、光一さん」

咲の声は、低く、冷たかった。ありさがびくりと肩をすくめる。慎吾でさえ、思わず背筋を伸ばした。

「黙って聞いてれば、俺が、俺が、俺が。……あんた、いつからそんなに偉くなったの」

「咲ちゃん……」

「四年前、あんたがこの店に来たとき、なんて言ったか覚えてる?」

咲はカウンターに両手をつき、光一の目をまっすぐに見据えた。

「一人じゃ祭りはできない。だから、一緒にやってくれ。そう言って、頭を下げたのよ。私にも、真島さんにも、ありさにも、商店街じゅうの若い連中にも。あんたが一人で祭りを復活させたんじゃない。皆で、やるって決めたの。それを、今さら一人で背負うなんて、私たちに対して失礼だと思わないの」

光一は、言葉を失ったように咲を見つめていた。

「あやめちゃんが倒れて、一番辛いのはあんただってわかってる。焦る気持ちもわかる。でもね、焦ってるあんたが一人で走り回ったって、何も変わらない。現に、今日の会合で、真島さんの報告書、最後まで読もうとしなかったのは誰? 慎吾さんがどんな顔であんたを見てたか、見えてた?」

慎吾が、気まずそうに頭をかく。

「あんたは会長でしょ」

咲の声が、少しだけ和らいだ。

「会長の仕事は、一人で走り回ることじゃない。全体を見て、誰に何を任せるか決めることよ。いつものあんたなら、そんなこと、誰に言われなくたってわかってるはずでしょ」

店の中に、沈黙が落ちた。レコードの針が、溝の上を静かに滑っていく。

やがて、光一は、長く息を吐いた。肩から、何か重いものが抜け落ちたように見えた。

「……すまん」

かすれた声で、光一は言った。

「咲ちゃんの言う通りだ。……どうかしてたな、俺は」

「ほんとよ」

咲はふんと鼻を鳴らし、光一の空のグラスを下げた。代わりに、冷たい水を注いだグラスを置く。

「ウイスキーは、もうおしまい。今夜はそれ飲んで、ちゃんと寝なさい」

「……はい」

光一が素直に頷くと、慎吾が、ほっとしたように笑った。

「おっかねえなあ、咲ちゃんは。俺まで説教されてる気分だったぞ」

「慎吾さんも同罪よ。止めるならもっと早く止めなさいよ」

「へいへい」

張り詰めていた空気が、少しずつほどけていく。それでも、店の中にはまだ、どこか重たいものが残っていた。

その空気を変えようとしたのか、ありさが、ふんふんと小さく鼻歌を歌い始めた。

祭りの盆踊りで毎年流れる、三番街の古い音頭だった。司会の練習で、何度も聞いて覚えたのだろう。ありさの声は、鼻歌でもよく通った。少し調子っぱずれで、それでいてやわらかく、裸電球の明かりの中に溶けていく。

咲は、グラスを拭く手を止めた。

こめかみの奥に、ここ数日ずっと居座っていた、冷たい指の感触。それが、ありさの鼻歌が流れている間だけ、ふっと遠のいた気がした。

咲は、ありさの横顔をじっと見た。ありさは目を閉じ、気持ちよさそうに体を揺らしている。何も気づいていない。

鼻歌が終わると、冷たい感触は、また静かに戻ってきた。

「……ありさ」

「ん? なに?」

「……ううん。なんでもない。上手くなったわね、その音頭」

「でしょ! 毎晩お風呂で練習してるもん」

ありさはにっこり笑うと、ぱんと手を叩いた。

「そうだ、明るい話もしようよ! ねえ咲、昨日お店のSNSに上げた新作カクテルの写真、すっごい反応よかったんだよ。私が撮ったやつ!」

ありさはカウンターの隅に置いてあった店のタブレットを手に取り、画面を操作した。

「ほら、見て。綺麗に撮れてるでしょ」

差し出された画面を、咲は何気なく覗き込んだ。

グラスの中で、淡い青色のカクテルが光っている。その写真の真ん中が、ゆらりと、陽炎のように揺れていた。

こめかみの奥を、冷たい指がなぞる。

咲は、思わずタブレットを伏せた。

「咲?」

「……光一さん。慎吾さん。これ、見える?」

咲がもう一度画面を表に返すと、光一と慎吾が同時に覗き込んだ。二人の顔色が、さっと変わる。

「……歪んでる」

「ああ。ポスターの写真と、同じだ」

「え? え? どこが? すっごく綺麗に撮れてるよ?」

ありさだけが、きょとんと首を傾げている。

咲は、タブレットを握る手に力を込めた。

「ありさ。このタブレット、どこのネットにつないでる?」

「どこって……商店街のフリーWi-Fiだよ。光一さんが、せっかくだから使ってって勧めてくれたじゃん。咲、自分でつないでって私に頼んだでしょ?」

光一が、はっと息を呑んだ。

「……ここは、交差点から離れてるはずだ」

「でも、路地の入口に、もう一台あるわよね。あの機械」

咲の言葉に、光一の顔から血の気が引いていく。商店街を三台でカバーするフリーWi-Fi。交差点に一台、路地の入口に一台、駅側に一台。その配置を決めたのは、他でもない光一だった。

「……広がってるのか。交差点から、こっちにも」

光一の呟きが、静かな店の中に落ちた。

しばらく、誰も何も言わなかった。レコードはいつの間にか終わっていて、針が溝の終わりを擦る、ざらざらとした音だけが響いていた。

やがて、光一が、ゆっくりと顔を上げた。

「……慎吾。真島くんの報告書、まだ持ってるか」

「お、おう。ここに」

慎吾が鞄から紙の束を取り出すと、光一は黙ってそれを受け取った。会合では飛ばそうとした、最後のページを開く。裸電球の明かりの下で、光一はその短い文章を、今度は一文字ずつ、確かめるように読んでいた。

咲は、グラスを拭きながら、その横顔を見ていた。

目の下の隈は消えていない。頬もこけたままだ。それでも、紙の上を追う光一の目には、ほんのわずかに、咲がよく知っている光が戻りかけていた。会合の席で一人だけ腕を組み、全体を見渡しているときの、あの静かな目の光。まだ、ほんの小さな火種のようなものだったけれど。

慎吾も、それに気づいたらしかった。何も言わずに、薄いハイボールを一口すすり、小さく口の端を上げた。

「……ねえ、咲」

ありさが、カウンター越しに小声でささやいた。

「光一さん、ちょっとだけ、元気になった?」

咲は、伏せたままのタブレットにちらりと目をやった。こめかみの奥では、相変わらず冷たい指がうごめいている。事態は、何ひとつ良くなっていない。

それでも。

「……そうね。ちょっとだけ、ね」

咲はそう答えて、光一の前の水のグラスに、冷たい水を注ぎ足した。


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