第三章 再起1

商工会の会合は、三番街の外れにある商工会館の二階で開かれた。

夜八時。店を閉めた役員たちが、一人、また一人と、くたびれた顔で集まってくる。古い会議室には、年季の入った長机がロの字に並べられ、天井の扇風機がゆっくりと生ぬるい空気をかき回していた。窓の外からは、まだ蝉の声が聞こえる。

咲は、夏祭り実行委員の席に腰を下ろし、手元の資料に目を落とした。出店者の一覧。ボランティアの名簿。会場の配置図。ここ数日で、その一覧のあちこちに、赤いペンで線が引かれていた。

「皆さん、遅くまでご苦労さん!」

上座に立った光一が、よく通る声で言った。

咲は顔を上げ、思わず目を細めた。

光一は、きちんと髭を剃り、糊のきいたシャツを着ていた。髪も整えている。数日前、慎吾から聞いていた姿とは、まるで別人だった。表情も明るい。口元には笑みさえ浮かんでいる。

だが、資料を持つ光一の指先が、かすかに震えているのを、咲は見逃さなかった。

「さて、今日の議題は、皆さんご承知の通り、夏祭りのことだ。まずは、実行委員会から現状を報告してもらおうか。咲ちゃん、頼む」

「はい」

咲は立ち上がり、資料を手に取った。

「出店の申し込みは、例年通り六十二店舗ありました。そのうち、この一週間でキャンセルの連絡があったのが、十一店舗。理由は、ほとんどが『体調不良者が出ている地域での出店は不安』というものです。それから、ボランティアの申し込みも、学生さんを中心に、八名の辞退が出ています」

会議室が、ざわりと揺れた。

「保護者の方からの問い合わせも、事務局に毎日何件か入っています。『子どもを祭りに行かせても大丈夫か』『あの写真は本当に呪いなのか』。……以上です」

咲が席に戻ると、あちこちから、ため息とも唸り声ともつかない声が漏れた。

「……十一店舗か。まずいな」

焼き鳥屋の店主が、腕を組んで唸る。

「うちの店の前でも、この前、若い子が倒れたんだ。救急車まで来て、大騒ぎだったよ」

八百屋の主人が声をひそめた。

「うちのばあさんもだ。交差点のバス停で、水の底にいるみたいだって言って、しゃがみ込んじまってな」

「うちは、売り上げが目に見えて落ちてるわ。交差点のすぐそばだからって、みんな避けて通るのよ」

パン屋の女将が、ため息まじりに言った。

「花屋もだ。お祝いの花の注文が、二件も取り消しになった。三番街から届くのは縁起が悪い、だとさ」

花屋の主人が、苦い顔で肩を落とした。

「呪いだのなんだの、馬鹿馬鹿しい。夏なんだから、熱中症に決まってるだろう」

呉服屋の老店主が、苛立たしげに扇子を鳴らした。

「でも、写真を見て具合が悪くなるってのは、どう説明するんです?」

「そんなもの、気の持ちようだ。怖い怖いと思って見るから、そう見えるんだ」

「じゃあ、中学生の子が倒れたのも、気の持ちようだって言うんですか」

若手の雑貨屋の主人がそう言いかけて、はっとしたように口をつぐんだ。会議室の視線が、一斉に上座へと向かう。

光一は、笑っていた。

「あやめなら、もう大丈夫だ。今は慎吾のところで、元気にしてる。洋子さんの飯がうまいってな、毎日食べすぎてるらしい」

軽い調子でそう言って、光一ははははと笑った。誰も、つられて笑わなかった。

「……で、だ。問題は、祭りをどうするか、だ」

光一は資料を机に置き、両手をついた。

「俺は、やるべきだと思っている。三番街の祭りは、四十年以上続いてきたんだ。感染症の騒ぎで一度途切れて、先代の会長のときに、そのまま廃止が決まった。それを、皆で頭を下げて回って、ようやく復活させた。今年で、復活してから四回目だ」

光一は、会議室の一人一人の顔を見回した。

「噂ひとつで、また途切れさせるわけにはいかない。一度止めたら、今度こそ二度と戻ってこないかもしれないんだ」

咲は、その言葉を黙って聞いていた。

祭りが廃止された理由は、感染症の騒ぎだけではなかった。役員も実行委員も年寄りばかりになり、準備を担える人間が、もうほとんど残っていなかったのだ。だから光一は、商店街の若い店主たちを一軒一軒回って、頭を下げた。一緒に祭りをやってくれないか、と。

ネミッサにも来た。カウンター越しに、実行委員を引き受けてくれないかと、深々と頭を下げられた。あんま堂の真島も、同じように口説き落とされて、今では実行委員として案内や支払いの仕組みを任されている。ありさに至っては、「声がよく通るから」という理由で、祭りの司会を任された。

咲が今この席に座っているのは、あの日の光一がいたからだ。

「それに、原因も、少しずつわかってきている」

「原因?」

「ああ。真島くんが調べてくれてな。報告書が届いている」

光一は、資料の束から数枚の紙を取り出した。今日の夕方、真島から届いたばかりの、二通目の報告書だという。

「真島くんは、今日は施術の予約が入っていて来られないそうだ。代わりに、俺から要点を説明する」

咲は、手元のペンを握る指に、少しだけ力を込めた。

光一は報告書に目を落とし、淡々と読み上げ始めた。

「問題の写真は、商店街のフリーWi-Fiを経由してアップロードされたものに限って、通信の過程で余分なデータが付加されていることが確認された。……それから、これは今回新しくわかったことだが、ネット上に出回っている問題の写真は、共有され、複製されるたびに、付加されたデータの量が増えていく傾向がある、と」

「増えていく?」

「そうだ。つまり、ネットで広まれば広まるほど、写真の『歪み』とやらは強くなっていく、ということらしい」

会議室が、再びざわめいた。咲は、伏せた目の奥で、ぞくりとするものを感じた。広まるほど、濃くなる。煮詰めた瓶の中身が、注ぎ分けられるたびに、かえって溢れ出していくように。

「現在、さらに詳しい調査を続けている。……以上だ」

光一は、報告書を閉じた。

「ちょっと待て、光一」

そのとき、慎吾が手を挙げた。

「若人くんの報告書、まだ続きがあるだろ。最後のページ」

光一の手が、ほんの一瞬、止まった。

「……まだ調査中の話だ。今ここで言うことじゃない」

「調査中だろうと、若人くんが書いてきたことだ。読めよ」

慎吾の声は、静かだったが、引く気配はなかった。会議室の空気が、張り詰める。光一はしばらく慎吾を見つめていたが、やがて、低い声で読み上げた。

「……原因の究明までのあいだ、被害の拡大を防ぐため、商店街のフリーWi-Fiの運用を、一時的に停止することを推奨する」

「Wi-Fiを止める?」

呉服屋の老店主が、扇子を鳴らす手を止めた。

「冗談じゃない。あれは、商工会の金で入れたもんだろう。祭りの支払いも、案内も、全部あれでやる準備をしてるんだぞ」

「そもそも、Wi-Fiと呪いの写真に、何の関係があるんだ」

「データがどうのこうのって、俺たちにはさっぱりわからん」

役員たちが口々に言う。光一は、それを手で制した。

「皆さんの言う通りだ。Wi-Fiを止めるかどうかは、もう少し様子を見てから判断したい。今止めれば、それこそ噂を認めることになる」

「光一」

慎吾が、もう一度、名前を呼んだ。今度は、さっきよりもずっと穏やかな声だった。

「俺は、お前を責めてるんじゃない。ただ、一人で全部決めようとするなって言ってるんだ」

光一は答えなかった。資料の上に置いた手が、拳の形に握られている。

咲は、その拳から目を離さなかった。言いたいことは、喉元まで来ていた。だが、ここで口を開けば、会合そのものが壊れてしまう。咲は唇を引き結び、膝の上で指を組んだ。

重い沈黙を破ったのは、慎吾だった。

「……提案がある」

慎吾は立ち上がり、役員たちを見回した。

「祭りをやるか、やめるか。今この場で決めるのは無理だ。だが、いつまでも決めずにいるわけにもいかねえ。出店者にも、業者にも、ボランティアにも、準備ってもんがある。キャンセル料が発生しないぎりぎりの線は、祭りの二週間前だ」

慎吾は、指を二本立てた。

「だから、期限を切ろう。祭りの二週間前、その日の会合で、開催か中止かを決める。それまでに、原因をはっきりさせる。はっきりしなけりゃ、中止だ」

会議室が静まり返った。やがて、焼き鳥屋の店主が、ゆっくりと頷いた。

「……それしかないだろうな」

「異議なし」

「仕方ない」

一つ、また一つと、賛成の声が上がる。呉服屋の老店主も、不満げに鼻を鳴らしながら、扇子を閉じた。

最後に、全員の視線が、上座の光一に集まった。

光一は、しばらく黙っていた。それから、ゆっくりと顔を上げた。

「……わかった。祭りの二週間前。それが期限だ」

その声は、さっきまでの明るさが嘘のように、かすれていた。

咲は、手元のカレンダーに目を落とした。祭りの二週間前。今日から数えて、ちょうど十四日。

◇

会合が終わり、役員たちが三々五々、帰り支度を始める中で、光一だけが上座の椅子に座ったまま動かなかった。机の上に広げた真島の報告書を、じっと見つめている。

慎吾が、その肩をぽんと叩いた。

「光一。ちょっと付き合え」

「……どこへだ」

「決まってんだろ。咲ちゃんの店だ」

光一が顔を上げる。慎吾の向こうで、咲が鞄を肩にかけながら、こちらを見ていた。

「開けるわよ、今から」

咲は短くそう言った。いつもの涼しい声だった。けれど、その目は、少しも笑っていなかった。


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