第二章 拡大5

それから数日のうちに、三番街の空気は、目に見えて変わっていった。
「交差点の信号待ちで、耳元で誰かがずっとぶつぶつ言ってる気がしたんだよ。振り返っても、誰もいないの」
「八百屋のおばあちゃん、あそこのバス停で急にしゃがみ込んじゃったんだって。水の底にいるみたいに息が苦しかったって」
「うちの子なんか、あの角を通ると頭が痛くなるから、遠回りして学校行ってるわよ」
ビリーブのテーブル席でも、そんな話がひそひそと交わされるようになった。噂は写真から街へと染み出し、気がつけば、交差点の周りでは、幻聴だの、立ちくらみだの、得体の知れない不調を訴える人が、一人、また一人と増えていた。
見えない者には、何も見えない。聞こえない者には、何も聞こえない。だから、ただの気のせいだ、夏の暑さのせいだと笑い飛ばす者も、まだ大勢いた。
田川永輔も、その一人だった。
◇
一学期の終業式の日。
もうすぐ始まる大学の前期試験を気にしつつも、永輔は昼からのシフトに向かっていた。三番街のアーケードを抜け、交差点に差しかかる。照り返しの強い歩道の上で、信号待ちの人たちが、うんざりしたように日陰を探していた。
「あっつ……」
永輔は額の汗を拭いながら、スマートフォンを取り出した。画面には、自分のSNSのアカウントが開いている。二週間ほど前、大学の友達から回ってきた例の「歪む心霊写真」を、軽い気持ちで投稿したものだ。
『見る人によって見え方が違うらしい心霊写真。俺は何も見えないんだけどw 見えた人いる?』
共有の数は、いつの間にか、永輔が見たこともない桁に膨れ上がっていた。コメント欄も、通知が追いつかないほどに埋まっている。永輔は、なんとなくそれを指でなぞった。
『見えた。気持ち悪い』
『これガチのやつじゃん』
『三番街の近くの写真だよね? 最近あの辺で倒れる人多いらしい』
『うちの娘が見て、その夜ずっとうなされてた。面白半分で拡散しないでください』
最後のコメントのところで、永輔の指が止まった。
「……いや、でも、俺が撮ったわけじゃないし」
誰に言い訳するでもなく呟いて、永輔はスマートフォンをポケットに戻した。胸の奥に、小さな棘のようなものが引っかかっている。それを振り払うように顔を上げた、そのときだった。
交差点の向こう側に、見知った制服姿があった。
あやめだ。終業式を終えて、帰ってきたところなのだろう。両手に体操服の袋と上履きの入った袋を提げ、友達に手を振って別れたところだった。
「おーい、あやめ先輩! 夏休み、おめでとー!」
永輔が手を振ると、あやめは顔を上げ、少し照れくさそうに手を振り返した。そして、信号を待つ人波の端、歩道の脇に立つ真新しい金属の箱のそばで、足を止めた。
その箱の上に、白い猫が一匹、乗っていた。
ろくすけだ。いつもビリーブの特等席で丸くなっている、あの白猫。だが、今のろくすけは、いつもの眠たげな姿とはまるで違っていた。全身の毛を逆立て、背中を弓なりに丸め、尻尾を太く膨らませて、自分が乗っている箱に向かって、低く唸り声を上げている。
「ろくすけ?」
あやめが、不思議そうに猫を覗き込んだ。
次の瞬間、あやめの顔から、すっと表情が消えた。
提げていた袋が、手から滑り落ちる。あやめは両手で耳を押さえ、その場に立ち尽くした。唇が、何かを言おうとして震えている。
「あやちゃん?」
信号が青に変わった。永輔は、人波をかき分けるようにして横断歩道を走った。
「あやちゃん、どうした!」
「……永輔さん」
あやめが、焦点の合わない目で永輔を見上げた。
「……ねえ。聞こえない?」
「聞こえないって、何が」
「いっぱい……いっぱい、しゃべってる。怒ってる人も、泣いてる人も……みんな、いっぺんに……」
永輔には、何も聞こえなかった。車の走る音と、蝉の声と、人々のざわめき。いつもの交差点の音しか、聞こえない。
「あやちゃん、しっかりしろ。何も聞こえないって。な?」
「……うるさい……やめて……」
あやめの膝が、がくりと折れた。永輔はとっさにその体を抱きとめた。驚くほど軽く、驚くほど冷たかった。この暑さの中で、あやめの腕には鳥肌が立っていた。
「あやちゃん! おい、あやちゃん!」
腕の中で、あやめのまぶたが、ゆっくりと閉じていく。その唇から、かすれた声が漏れた。
「……空が……まるい……」
「え?」
「……すごく、遠い……」
それきり、あやめは動かなくなった。
「誰か! 救急車……いや、すぐそこなんで!」
永輔は周りに叫び、あやめを抱き上げた。箱の上のろくすけが、ひときわ高く鳴いた。永輔は振り返りもせずに走った。交差点を渡ってすぐの角。白い外壁の、見慣れた店。
「店長! 夏子さん!」
ドアを肩で押し開け、永輔は叫んだ。
◇
それからのことは、永輔の記憶の中で、ひどく断片的だった。
厨房から飛び出してきた光一の顔。あんな顔をした光一を、永輔は見たことがなかった。夏子が震える手で電話をかける声。ソファーに寝かされたあやめの、紙のように白い頬。やがて駆けつけた救急隊員が、熱中症かもしれない、と言ったこと。それを聞いた光一が、違う、と小さく呟いたこと。
幸い、あやめは救急車の中で意識を取り戻した。病院でも、念のための点滴を受けただけで、夕方には家に帰ってこられた。
だが、光一が病院から戻ってきたとき、その目にはもう、焦りの色さえ浮かんでいなかった。ただ、ひどく疲れきって、空っぽに見えた。
「……あやめを、しばらく、ここから離そうと思う」
厨房の椅子に腰を落とし、光一は誰にともなく言った。
「この店は、あの交差点に近すぎる」
夏子が、そっと光一の肩に手を置いた。
「洋子さんに、相談してみるわ。あそこなら、交差点からも離れてるし、あやめも小さい頃からよく遊びに行ってたから」
光一は、黙って頷いた。
厨房の入り口で、永輔はエプロンを握りしめたまま、その様子を見ていた。何か言わなければと思った。けれど、何を言えばいいのか、まるでわからなかった。
◇
店の裏口を出ると、外はもう薄暗くなっていた。昼間の熱気が、まだアスファルトにこもっている。
永輔は壁にもたれて、ずるずるとその場にしゃがみ込んだ。ポケットから、スマートフォンを取り出す。画面には、さっきの自分の投稿が表示されたままだった。
『見る人によって見え方が違うらしい心霊写真。俺は何も見えないんだけどw』
最後の「w」が、ひどく軽薄に見えた。
永輔は、震える指で投稿を削除した。画面から、自分の言葉が消える。けれど、共有された何千、何万という写真は、もう永輔の手の届かないところで、今も誰かのスマートフォンに映し出されているのだ。
「……何やってんだよ、俺」
いつもなら、どんなことでも笑って流せた。誰とでも気軽に話せて、どこへ行っても誰かがいて、それで十分だと思っていた。
でも、今は、笑えなかった。
腕の中で冷たくなっていったあやめの重さが、まだ消えない。
「永輔?」
不意に、頭の上から声が降ってきた。顔を上げると、配達用の台車を押した裕太が、驚いたようにこちらを見下ろしていた。
「お前、こんなとこで何して……」
裕太は言いかけて、永輔の顔を見て、口をつぐんだ。
しばらく黙って立っていたが、やがて台車から缶のスポーツドリンクを一本抜き取り、永輔の隣に腰を下ろした。そして、何も言わずに、それを永輔の手に押しつけた。
冷たい缶の感触が、手のひらに染みた。
「……裕太。あやちゃん、倒れた」
「うん。店長から聞いた」
「俺、目の前にいたのに。何も、見えなかったし、何も、聞こえなかった」
「……うん」
「あの写真さ。俺が、面白がって、広めてたんだよ」
裕太は、何も言わなかった。責めもしなかったし、慰めもしなかった。ただ、永輔の隣に座って、暗くなっていく路地を一緒に見ていた。
永輔は缶を両手で握りしめたまま、うつむいた。蝉の声が、いつの間にかひぐらしの声に変わっていた。















