第一章 波紋5

夜の帳が下りた路地裏で、ひっそりと看板に明かりを灯すバー『ネミッサ』。天井から下がる裸電球が橙色の灯りを落とし、赤レンガの壁に掛けられたサックス奏者のモノクロ写真を、ぼんやりと浮かび上がらせている。カウンターの背後では、下から照らし出された棚にウイスキーの瓶がずらりと並び、ほのかに琥珀色に輝いていた。店の隅ではレコードプレーヤーがゆっくりと回り、静かなジャズを流している。グラスの中で氷がカランと心地よい音を立てた。

「はーい、お待たせしました! ジントニックです!」

カウンター席の端から元気よく飛び出し、テーブル席の客へグラスを運んだのはありさだ。今日は、客として飲みに来ているはずなのだが、持ち前の明るさと世話焼きな性格から、半ば店員のように立ち回っている。

「ありさ、ありがとう。はい、これお礼」

「えっ、咲の手作りチョコ!? やったー!」

カウンターの中でシェイカーを振っていた咲が、小皿を差し出しながら苦笑する。白いシャツに黒のベスト、首元には蝶ネクタイ。開店後の咲の、いつもの装いだ。

「ありさ、あんまり飲みすぎないようにね。また酔って子供みたいに泣き上戸になられても困るから」

「だーいじょうぶだって! 咲こそ、せっかくの美人なんだからもうちょっと愛想よくしないと、男の人逃げちゃうよ?」

「余計なお世話」

上品な顔立ちに男勝りなサバサバとした空気を纏う咲は、言い寄る男たちを涼しい顔であしらうことで有名だ。姉御肌の咲と、天真爛漫なありさ。正反対な二人のテンポの良い掛け合いは、この店の名物でもあった。

やがて夜も更け、テーブル席の客が一通りはけて店内に静寂が戻った頃。ドアベルが軽やかに鳴り、重厚な木製のドアが開いた。入ってきたのは、ダークスーツを着こなした男だった。細身ながらも引き締まった筋肉質の体躯と、鋭くも整った顔立ち。県警本部のサイバー犯罪対策課に勤める、須藤達也だ。咲の実家の隣に住んでいた、三つ年上の「近所のお兄ちゃん」。咲の後ろをいつもついて回っていたありさにとっても、それは同じだった。達也は店に入るなり、迷わずカウンターの真ん中に座った。

「いらっしゃい、たっちゃん」

「たっちゃん、いらっしゃい! 今日も男前だねー」

咲が静かな声で迎え、ありさが無邪気に手を振る。咲は注文も聞かずに流れるような所作でシェイカーを振り、達也の前にカクテルを置いた。

「ギムレットか」

小さく呟きながらカクテルを口に含む。

「どう? 今日のカクテル」

咲がグラスを磨きながら尋ねる。

「……相変わらず、可愛げのない味だ」

「最高の褒め言葉ね」

そのとき、カウンターに置いた達也のスマートフォンが短く震えた。達也は画面に目を落とし、眉間にしわを寄せる。

「お仕事?」

「後輩だ。明日の会議資料、まだ作ってるらしい」

達也は親指で素早く返信を打ち込んだ。ありさが身を乗り出して画面を覗き込もうとするが、達也は片手でそれを制する。それでも、送信した一文だけは見えてしまった。

──残りは明日の朝、俺がやる。今日はもう帰って寝ろ。

「たっちゃん、優しいー」

「うるさい」

「そんなに優しいのに、なんで彼女できないんだろうね?」

「余計なお世話だ」

さっきの咲とまったく同じ台詞を返す達也に、ありさが「あはは!」と手を叩いて笑う。咲は肩をすくめた。

「県警の七不思議の一つ、なんでしょ? たっちゃんが独身なの」

「誰に聞いた、それ」

「お客さん」

達也はつまらなそうに鼻を鳴らし、手元のグラスから視線を上げずに口を開いた。

「それより今日は、真島のやつにまたやられて、散々だった」

「今度は何されたの?」

咲がグラスを磨く手を止めずに尋ねる。

「頼んでた調べものの報告書を開いたら、画面いっぱいに猫の写真だ。どこをクリックしても鳴きやがる。課の連中の前でな」

苦々しげにそう言うと、達也はグラスを傾けた。

「……しかも、肝心の中身は完璧ときてる」

その光景を想像したのか、ありさがまた声を上げて笑った。

「あ、私、仕事帰りに真島さんのとこ寄ってきたんだ。肩ガチガチだったから。真島さん、今日はラジオの占いでラッキーデーだったんだって。ニコニコ割引してもらっちゃった」

ありさはチョコをひとつ口に放り込み、楽しそうに続ける。

「真島さんって、普段はすごく大人なのに、たっちゃんにだけは子供みたいなことするよね」

「本当に。真島さんらしいわね」

咲もくすりと微笑む。真島はこの店の常連で、咲とありさもまた、あんま堂の常連だ。もとは達也が連れてきたのがきっかけだったが、今ではカウンターに四人が並んで、夜更けまで飲むことも珍しくなかった。

レコードの曲が終わり、針が溝を擦る小さな音だけが残る。その静けさの中に、低く、ざらついた音が混じっていた。それは見る間に厚みを増し、店の外壁を叩く激しい雨音に変わっていく。

「うわ、すごい音。降ってきたね」

ありさがスツールから降りてドアに駆け寄り、外を覗き込むように押し開けた。湿った夜気が店内に流れ込む。咲と達也も、つられるように開いたドアの向こうへ目を向けた。

路地裏の街灯の下、大粒の雨がアスファルトを激しく叩いていた。昼間の熱を溜め込んだ路面から、白い蒸気がゆらりと立ちのぼる。街灯の光を透かしたそれは、揺らめきながら、向こうの景色をぐにゃりと歪ませていた。まるで、夏の陽炎のように。

達也は目を細め、しばらくその揺らめきを見つめていた。

「明日は蒸すな」

そう呟いて、残りのカクテルを一気に煽る。

咲は、グラスを磨く手を止めていた。

街灯の下で揺らめく蒸気。その向こうで歪む路地の景色が、昨日、ありさのスマートフォンで見たポスターの写真と重なる。浴衣姿の少女の顔のあたりで、陽炎のようにうねっていた、あの歪み。こめかみの奥を、冷たい指でなぞられたような感覚が、またよみがえった。

「咲? どうしたの?」

ドアを閉めながら、ありさが振り返る。

「……ううん、なんでもない」

咲は短く答え、再びグラスを磨き始めた。けれど、その視線はしばらくの間、閉じられたドアから離れなかった。


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