第一章 波紋3

大通りから少し入った路地裏にあるバー、『ネミッサ』。地元ではそれなりに名の知れた人気店だ。日曜日の午後、開店前の店内では、天井から下がる裸電球にはまだ灯が入っておらず、開け放した裏口から差し込む午後の光が、赤レンガの壁と黒光りする長いカウンターをぼんやりと照らしている。そのカウンターの中で、マスターの滝田咲がレモンを切り分けていた。目元にかかる前髪を残して、黒髪を後ろでひとつに結び、袖を肘までまくった白いシャツに黒のベスト。すっと背筋の伸びた立ち姿と、無駄のない手つきでナイフを動かす様子は、それだけで絵になる。その裏口のドアが、ノックと共に開かれた。

「こんにちは、失礼します! 『杉本酒店』の配達です」

咲がナイフを置いて顔を上げる。

「裕太くん。いつもご苦労様」

元気な声で現れたのは、杉本酒店でアルバイトをしている大学生の川崎裕太だった。大学のテニス部で鍛えた体で、注文していた重い酒の瓶が入ったケースを軽々と運び込んでくる。

「注文の品、カウンターの端に置かせて……あ、」

裕太の動きがピタリと止まり、その顔にパッと朱が差した。カウンターの奥のテーブル席で、咲の作ったまかないのパスタを食べていたありさと、バッチリ目が合ったのだ。

「裕太くん、お疲れ様ー! 今日もえらいねぇ」

長谷川ありさは、アパレル店に勤務しており、ネミッサの常連客でもある。咲とは幼馴染で、シフトが休みの日には、たまに店を手伝うこともあった。今日もちょうどシフトが休みで、昼過ぎから店に顔を出している。ゆるく編んだ二本のおさげ髪に、ざっくりとした生成りのカーディガン。手首には色とりどりのビーズのブレスレットがいくつも重なっている。

「あ、ありささん! こ、こんにちは! お昼ご飯ですか、美味しそうですね!」

ありさの無邪気な笑顔に、裕太はあからさまに声のトーンを上ずらせた。裕太の態度は、ありさ本人を除いて、周りの者たちにはバレバレである。

「うん、咲のご飯サイコーだよ。裕太くんも食べる?」

「い、いえ! 僕はもう食べてきたので! あ、そうだ。これ、店長から咲さんへ差し入れです!」

裕太は照れ隠しのように慌ててエプロンのポケットから小さな紙袋を取り出し、咲に向かって両手で差し出した。

「慎吾さんから?」

「なんか、奥さんと出かけた時に買った美味しいお菓子らしいです。咲さんは甘いものが好きだから持っていってやれって、言付かりました」

咲が紙袋の口を開くと、焼き菓子の甘い香りがふわりと立ちのぼった。咲の表情が、思わずほころぶ。

「ふふ、慎吾さん、相変わらず洋子さんと仲がいいね。わざわざありがとう、裕太くん。慎吾さんに『美味しくいただきます』って伝えておいて」

「はい、伝えておきます! それじゃあ、また!」

裕太は、ありさにペコペコと何度もお辞儀をしてから、真っ赤な顔のまま逃げるように去っていった。

「あのケース、すごい重そうだったもんね。裕太くん、顔真っ赤だったよ」

裕太の後ろ姿を見送りながら、ありさが本気で心配そうに首を傾げる。瓶のケースを軽々と運んでいた青年の顔が赤くなった理由に、当の本人だけが気づいていない。

「あの子、ありさの前だと毎回ああなるのよね」

咲がさらりと言うと、ありさは「え、なにが?」ときょとんとした顔で聞き返した。咲は答えず、肩をすくめて苦笑し、再びナイフを手に取った。

「あ、そうだ咲、これ見た? 夏祭りのポスター。大川さんとこのあやちゃん、浴衣ですっごい可愛いの」

ありさがフォークを置き、スマートフォンの画面を咲に向ける。咲はレモンを切る手を止め、ちらりと画面に目をやった。

商店街を背景に、浴衣姿の少女がはにかんだように笑っている。だが、その顔のあたりに視線が触れた瞬間、咲の眉がわずかに寄った。ほんの一瞬、こめかみの奥を冷たい指でなぞられたような感覚が走る。

「……ふうん」

咲はそれだけ返すと、すぐに画面から目を逸らし、手元のレモンに視線を戻した。

「え、それだけ? 可愛いでしょ?」

「可愛いわよ。あやめちゃんはね」

ありさは不満げに唇を尖らせながら、もう一度画面を覗き込んでいる。その目には、ただの可愛らしい祭りのポスターしか映っていないようだった。咲は切り分けたレモンを器に移しながら、もう一度だけ、ありさの手元のスマートフォンに目をやった。

◇

週明けの月曜日。カーテンの隙間から差し込む朝日が部屋の壁に光のラインを刻みつける。エアコンをつけ、ラジオを流すと、ちょうど占いのコーナーが終わり、軽快なジングルとともに交通情報に切り替わったところだった。昨夜は、管理を任されている商工会のサーバーのログを遅くまで追いかけていて、いつもより三十分ほど寝過ごしたのだ。今日の占いの結果が気がかりだったが、毎日のルーティーン通り、歯磨きをしながら、ゆで卵と職場に持っていくコーヒーの準備をする。天気予報では、夜は土砂降りらしい。十一分のタイマーをかけ、軽い筋トレをする。筋トレが終わるや否や十一分の経過を知らせる音がする。鍋とヤカンの火を止め、鍋から卵を取り出して水に浸す。ヤカンを何度か振ってティーカップにお湯を注ぐ。残りのお湯でコーヒーをドリップし、タンブラーに詰める。朝イチの一杯は白湯と決めている。

「今日もいい天気だ」

ティーカップの白湯を口に運びながら、壁にできた光のラインを見つめる。テーブルに置いてあるノートPCを開き、画面の拡大率を上げる。数字とアルファベットが羅列されたウインドウを開き、キーボードを操作する。勢いよく数字とアルファベットが吐き出され、イヤホンからは読み上げソフトの合成音声が、常人には聞き取れないほどの早口でそれを追いかけていく。続けて、インターネットブラウザを立ち上げ、いくつかのサイトを開く。画面から視線を横に逸らし、しばらく思案し、ティーカップに満たした白湯を飲み干し、身支度をして、白杖を手に部屋を後にする。

「あんま堂・まろ」は、この商店街の一角にある真島の経営するマッサージ店である。裏口から店内に入るとスタッフルームがあり、その奥に施術室がある。開店までまだ時間があるので、施術室の準備をし、スタッフルームのPCの電源を入れる。真島が自ら組み上げたPCで、マッサージ店のスタッフルームに置くにはあまりに不釣り合いな代物である。巷で最高峰と謳われるゲーミングPCですら、これと並べれば玩具に見えるだろう。真島は、スタッフルームのソファーに腰掛け、持ってきたゆで卵とコーヒーをテーブルに置き、PCで今朝聴きそびれた占いの結果を聞きながら、朝食をとった。ラジオによれば、どうやら今日はいい日になるらしい。コーヒーを飲みながら、キーボードを叩き、一通のメールを送信する。宛先の男が、これを開いたときにどんな顔をするか。それを想像して、真島はくすりと笑った。

今日は午前中五人、午後五人、合計十人の予約が入っている。一時から二時の間の一時間、ちょうど空き時間があるので、昼食はビリーブのオムライスを食べようと決める。

施術をしながら、真島は患者たちにそれとなく「歪んだ写真」の話を振ってみた。

「そうそう、先生、知ってる? 見ると具合が悪くなる写真」

施術台にうつ伏せになった常連の女性が、肩をほぐされながら声を弾ませた。

「うちの娘が学校で友達に見せられたらしくて、その晩うなされちゃって。真ん中がぐにゃぐにゃ動いて見えるんだって。私も見せてもらったけど、普通の写真にしか見えなかったのよね」

「それは心配ですね。いつ頃から出回ってるんでしょう」

「どうかしら。娘が言うには、二週間くらい前から急にあちこちで回り始めたって」

午前中だけで、三人がその写真の噂を知っていた。実際にその写真を見たという患者もいた。噂も写真も、それなりの範囲に広がっているようだ。それも、ここ一ヶ月……もっといえば、二週間ほどのうちに一気に拡散されているらしい。午前中の施術をこなし、軽く着替えて、白杖を手にビリーブへ向かう。


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