第二章 拡大6

杉本酒店の二階にある杉本家の居間には、朝から出汁のいい匂いが漂っていた。
「あやめちゃん、お味噌汁、おかわりあるわよ。卵焼きも、もう一切れどう?」
「洋子さん、もうお腹いっぱいだってば」
あやめが杉本家に来て、三日が経っていた。最初の晩こそ、慣れない布団の上でなかなか寝つけずにいたが、今ではすっかり洋子の手料理に餌付けされている。顔色も、ずいぶんよくなった。
「若いんだから、遠慮しないの。ほら、こっちの煮物も」
「……洋子さん、それ、さっきも言った」
「あら、そうだったかしら」
洋子はとぼけて笑い、あやめの茶碗にまたご飯をよそった。子どものいない杉本家に、突然やってきた中学生の娘。洋子はそれが嬉しくてたまらないらしく、朝から晩まで何かと世話を焼いている。慎吾に言わせれば、「洋子のやつ、浮かれすぎだ」ということだったが、そう言う慎吾自身も、昨日は商店街の菓子屋で、あやめの好きなどら焼きを箱ごと買ってきていた。
朝食を終えると、あやめは自分から階下の店に降りていった。
「慎吾さん、何か手伝うことある?」
「おいおい、病み上がりがなに言ってんだ。寝てろ寝てろ」
「もう平気だってば。それに、じっとしてると、いろいろ考えちゃうし」
あやめはそう言って、帳場の脇に積まれた空き瓶のケースを指さした。小学生の頃からビリーブを手伝ってきたあやめにとって、何もせずに過ごすほうが落ち着かないのだ。慎吾は少し考えてから、ため息まじりに笑った。
「……じゃあ、伝票の整理でも頼むか。重いもんは持つなよ」
「はーい」
昼前、店先のガラス戸が開いて、裕太が顔を出した。
「おはようございます! ……あ、あやめちゃん。もう大丈夫なの?」
「うん。おはよう、裕太さん」
あやめが伝票の束から顔を上げて手を振る。この三日で、二人はすっかり顔なじみになっていた。裕太はエプロンをつけると、慎吾から今日の配達表を受け取り、ざっと目を通した。
そして、ある一行で、ぴたりと動きを止めた。
あやめは、それを見逃さなかった。
裕太は配達表を握ったまま、店のガラス戸に映る自分の姿をちらりと確かめた。寝癖のついた前髪を、指先でそっと撫でつける。エプロンの紐を結び直す。もう一度、ガラス戸を見る。
「……裕太さん」
「な、なに?」
「その配達表、どこ行くの?」
「え? いや、別に、いつもの……駅前のお蕎麦屋さんと、焼き鳥屋さんと、それから……ネミッサ」
最後の一言だけ、妙に小さな声だった。
あやめは伝票の束を膝に置き、じっと裕太の顔を見つめた。裕太の耳が、じわじわと赤くなっていく。
「ねえ、裕太さん」
「……なに」
「ありささんのこと、好きでしょ」
裕太の手から、配達表がばさりと落ちた。
「なっ……なな、何言ってんの!? ち、違うよ! 僕は別に、ありささんのことなんて……!」
「私、まだ『ありささん』って名前しか言ってないのに」
「うっ」
裕太は真っ赤な顔で言葉に詰まった。帳場の奥で電卓を叩いていた慎吾が、こらえきれずに噴き出す。
「ぶはっ! あやめちゃん、今頃気づいたのか。そいつのありさちゃん好きは、商店街じゅうの奴が知ってるぞ」
「て、店長!」
「あら、なあに? 何の話?」
奥から、洗濯物のかごを抱えた洋子が顔を出した。慎吾がにやにやしながら説明すると、洋子は「まあ」と口に手を当て、それから楽しそうに目を輝かせた。
「裕太くん、ありさちゃんのこと好きなの? 素敵じゃない。ありさちゃん、明るくて可愛いものねえ」
「よ、洋子さんまで……!」
「ねえねえ、告白はしないの?」
あやめが身を乗り出す。裕太はぶんぶんと首を横に振った。
「す、するわけないだろ! だいたい、ありささんは僕なんかより七つも年上だし、きっと僕のことなんて、酒屋のバイトの子くらいにしか……」
「でも、ありささん、たぶん裕太さんの気持ち、全然気づいてないよ」
あやめは、きっぱりと言った。
「だって、ありささんって、そういう人だもん。お店に来ても、私が髪型変えたのには一番に気づいてくれるのに、自分のことになると、なんにも気づかないの。だから、裕太さんが言わなきゃ、一生気づかないと思う」
中学生とは思えない的確な分析に、慎吾と洋子が顔を見合わせた。裕太は、もう耳まで真っ赤になって、口をぱくぱくさせている。
「……あやめちゃん、なんでそんなに詳しいの」
「女子中学生をなめないでよね」
あやめが得意げに胸を張ると、慎吾は腹を抱えて笑い、洋子もくすくすと肩を揺らした。裕太は配達表を拾い上げると、「は、配達行ってきます!」と叫んで、逃げるように台車を押して出ていった。
ガラス戸が閉まったあとも、店の中にはしばらく笑い声が残っていた。
あやめは伝票の束を抱え直しながら、ふっと小さく息をついた。
ここに来てから、ちゃんと笑ったのは、たぶん初めてだった。
◇
午後の日差しが少し傾いた頃、店先に、見慣れた人影が立った。
「……あの、こんにちは」
永輔だった。ビリーブのエプロンをつけたまま、手には駅前の洋菓子店の小さな紙箱を提げている。いつもの人懐っこい笑顔は、どこにもなかった。
「おう、永輔くんか。あやめちゃんの見舞いか?」
慎吾が声をかけると、永輔は小さく頷いた。
「店長に、休憩もらって……ちょっとだけ、いいですか」
二階の居間に通された永輔は、座布団の上で落ち着かなげに正座をしていた。あやめが冷たい麦茶を二つ運んでくると、永輔は慌てて背筋を伸ばし、紙箱を差し出した。
「これ……プリン。あやちゃん、好きだったよな」
「わあ、駅前のお店のやつだ。ありがとう、永輔さん」
あやめが嬉しそうに箱を受け取る。永輔はその顔をまともに見られずに、膝の上で拳を握りしめた。
「……あやちゃん。ごめん」
「え?」
「あの写真。俺、ずっと面白がって、いろんな奴に見せてたんだ。SNSにも上げてた。俺には何も見えなかったから、ただの都市伝説だって、笑ってて……」
永輔の声が、かすかに震えた。
「それで、あやちゃんが、あんなことになって。……俺が、広めたせいかもしれない。だから、ごめん」
永輔は畳に手をつき、深く頭を下げた。
居間に、しばらく沈黙が落ちた。窓の外で、風鈴がちりんと鳴る。
やがて、あやめがことりと麦茶のグラスを置いた。
「……永輔さん、顔上げて」
永輔がおそるおそる顔を上げると、あやめは腕を組み、少しだけ頬を膨らませて、永輔を見下ろしていた。
「あのね。永輔さんがあの写真を撮ったわけじゃないでしょ。歪んでるのを作ったわけでもないでしょ」
「それは、そうだけど……」
「だったら、永輔さんのせいじゃないよ。悪いのは、あの気持ち悪い歪みのほう」
あやめはそう言い切ると、ふん、と鼻を鳴らした。
「それに、あのとき、私を運んでくれたの、永輔さんでしょ。お母さんから聞いた。走って運んでくれたって。……ありがとう」
「あやちゃん……」
「それから」
あやめは、わざとらしく咳払いをした。
「私のほうが、お店では先輩なんだからね。後輩が落ち込んでたら、先輩が励ましてあげるのは、当たり前なの」
永輔は、ぽかんと口を開けた。
いつもなら、ここで「はいはい、あやめ先輩」とおどけて返すところだった。けれど、今日の永輔は、うまく笑えなかった。目の奥がじんと熱くなって、慌ててうつむく。
「……はい。ありがとうございます、先輩」
かすれた声でそう言うのが、精一杯だった。
◇
その日の夕方、配達を終えた裕太が店を閉める手伝いをしていると、裏口のほうから永輔が顔を出した。ビリーブの仕事は、もう上がったらしい。
「裕太。……ちょっと、歩かね?」
二人は並んで、日の暮れかけた路地を歩いた。三番街の喧騒が、少し遠くに聞こえる。しばらくは、どちらも何も言わなかった。
「……あやちゃんにさ、励まされちゃった。中学生に」
永輔が、ぽつりと言った。
「先輩なんだから、後輩を励ますのは当たり前だって。……かっこ悪いよな、俺」
「いいんじゃないか。あやめちゃん、そういうとこ、しっかりしてるし」
「うん。……なあ、裕太」
永輔は、足元の小石を軽く蹴った。
「俺さ、友達、多いだろ。大学でも、バイト先でも、どこ行っても誰かいるし、誰とでもそれなりに話せる」
「ああ」
「でもさ、あやちゃんが倒れて、店の裏で一人になったとき、気づいたんだよ。俺、こういうとき、誰に電話すればいいのか、わかんなかった」
永輔は、苦笑いのような顔で空を見上げた。
「いっぱい友達いるのに、誰にも、本当のこと言えないんだ。言ったら、なんか、重いって思われそうでさ。だからいつも、適当に笑って、適当に流して……そのほうが楽だったし」
裕太は、黙って聞いていた。
「だから、あのとき、お前が来てくれて……正直、すげえ助かった」
永輔は、少し照れくさそうに頭をかいた。
「お前、何も言わなかっただろ。慰めもしないし、怒りもしないし。ただ隣に座って、ジュースくれて。……あれ、なんか、よかった」
裕太はしばらく考えてから、ぼそりと言った。
「……別に、何言えばいいかわかんなかっただけだよ」
「ははっ、なんだそれ」
永輔が、ようやく少しだけ笑った。裕太もつられて、口の端を上げる。
「でも、まあ」
裕太は前を向いたまま、言った。
「話したくなったら、いつでも聞くよ。僕、口下手だから、気の利いたことは言えないけど」
「……おう」
「あと、ノートは返せよ。試験、もうすぐだぞ」
「うわ、それ今言う?」
永輔は大げさに頭を抱え、それから声を上げて笑った。裕太も笑った。二人の笑い声が、夕暮れの路地に小さく響いた。
路地の入口に差しかかったとき、裕太はふと、足を止めた。
電柱の陰に、真新しい金属の箱が取りつけられている。商店街のフリーWi-Fiの機械だ。交差点にあるのと同じ型のものが、この路地の入口にも一つ置かれている。
その箱を見上げた瞬間、視界の端が、ほんのわずかに、チカリと瞬いた気がした。
「裕太? どうした?」
「……いや」
裕太は目をこすった。もう一度見ると、箱はただの箱だった。夕日を受けて、銀色の表面が鈍く光っている。
「なんでもない。気のせいだ」
裕太はそう言って、また歩き出した。路地の奥のどこかで、風鈴が一つ、ちりんと鳴った。















