第二章 拡大4

水曜日の朝。開店前のビリーブには、焙煎したての豆の香りが満ちていた。
夏子は焙煎機の火を落とし、煎り上がった豆を冷却用のざるに広げながら、厨房の奥にちらりと目をやった。調理台の端に置かれたノートパソコンの前に、光一が座っている。昨夜、夏子が先に休んだときも、あの場所にいた。今朝、夏子が起きてきたときも、あの場所にいた。着ているシャツも、昨日のままだ。
「あなた。少しは寝たの?」
「ああ、少しな」
光一は画面から目を離さずに答えた。嘘だ、と夏子にはすぐわかった。目の下には濃い隈が浮かび、無精髭がうっすらと伸びている。キーボードを叩く指だけが、妙に忙しなく動いていた。
画面には、商工会のホームページの管理画面が開かれている。夏祭りの告知ページ。そこに貼られた写真を、光一は昨夜から何度も差し替えていた。あやめが写っていない別のカットに。提灯だけを写した写真に。去年の祭りの写真に。アップロードして、ページを開いて、確かめる。そのたびに、写真の真ん中が、陽炎のようにゆらりと歪む。光一は眉間にしわを寄せ、また別の写真を選んで、アップロードし直す。
きっかけは、昨日の夕方だった。ランチの常連の奥さんが、帰り際に、気の毒そうにスマートフォンを差し出してきたのだ。
「大川さん、これ……お宅のあやめちゃんよね?」
地元の掲示板だった。商工会のホームページから拾われた、浴衣のあやめの写真。その下に、『呪いの画像』『見たら倒れる』『この子、誰?』と、見知らぬ誰かの言葉がずらりと並んでいた。
日曜日には、なんだこれ、バグか、と首をひねっていた光一の顔から、そのとき、すっと笑いが消えた。
娘の顔が、知らない誰かに、呪いと呼ばれている。それも、自分が親バカ丸出しで上げた写真のせいで。
その夜から、光一は、あのパソコンの前を離れなくなった。
「……くそ、これもか」
低い呟きが、厨房に落ちる。
「お父さん、おはよう」
階段を下りてきたあやめが、制服姿で厨房を覗き込んだ。日曜日に具合を悪くしてから、まだ顔色が冴えない。それでも、今日は学校に行くと言って聞かなかった。
「あやめ。無理しないで、今日は休んだらどうだ」
光一がようやく画面から顔を上げる。あやめは、父親の顔を見て、ほんの少しだけ眉を下げた。
「大丈夫だって。期末も終わったし、あとちょっとで夏休みだもん。それより、お父さんのほうが顔色悪いよ」
「俺は平気だ」
「……そのパソコン、また例の写真?」
あやめはノートパソコンの画面から、さっと目を逸らした。日曜日のことを思い出したのだろう。光一は慌てて画面を伏せる。
「見なくていい。お前は、何も心配しなくていいからな」
「……うん」
あやめは何か言いたげに父親を見つめていたが、やがて「行ってきます」と小さく言って、店を出ていった。ドアのベルが鳴り、制服の背中が、朝の日差しの中に消えていく。
夏子は冷めかけた豆をざるの上で返しながら、そっとため息をついた。
光一という人は、本来、こんなふうに物事に振り回される人ではない。商工会の会合で誰かが声を荒らげても、一人だけ腕を組んで黙って話を聞き、最後に皆が納得する落としどころを示す。店が忙しくて厨房が戦場のようになっても、光一だけは顔色一つ変えずに、次々と皿を仕上げていく。そういう人だ。
それが、あやめのことになると、たちまち周りが見えなくなる。
夏子はそれを、結婚してから何度も見てきた。そのたびに、少し呆れて、少しだけ、愛おしく思ってきた。だが、今回ばかりは、そんな悠長なことを言っていられる気がしなかった。
◇
昼のピークは、いつもと変わらずにやってきた。
「店長、三番テーブル、オムライス二つ入りましたー!」
「おう」
永輔の声に短く答え、光一はフライパンを火にかけた。溶き卵を流し込み、手首を返して、くるりと巻く。何千回、何万回と繰り返してきた動作だ。目をつぶっていてもできる。
そのはずだった。
「……店長? なんか、焦げ臭くないっすか」
永輔の声に、光一ははっと手元を見た。フライパンの上で、オムレツの底が、黒く焦げついている。
厨房の空気が、一瞬止まった。
「……すまん。作り直す」
光一は焦げたオムレツを流しに放り込み、新しい卵を割った。永輔は、何か言いかけて口をつぐみ、夏子のほうをちらりと見た。夏子は小さく首を横に振る。
永輔がこの店で働き始めて、一年半あまり。大学一年の冬、クリスマスの忙しい時期だけという約束で雇われて、そのまま居ついたのだった。光一がオムレツを焦がすところなど、一度も見たことがなかった。
◇
午後二時を回り、客足がようやく途切れた頃、ドアのベルが鳴った。
「よう、光一。邪魔するぞ」
慎吾だった。小脇に、紙の束を抱えている。
「慎吾か。悪いが、今は……」
「若人くんからの報告書だ。お前のところにも、メールで届いてるだろ」
慎吾はカウンターの席に腰を下ろし、紙の束を光一の前に置いた。昨夜遅くに真島から届いたメールを、慎吾がわざわざ印刷してきたものだ。数字が並んだ表と、比較された画像のデータ。そして、最後のページに、短い結論が書かれていた。
「……読んだよ。夜中にな」
光一は報告書に目を落としたまま、低く言った。
「フリーWi-Fiを通した画像にだけ、余計なデータが付け加えられている。原因は、フリーWi-Fiを通る経路のどこかにある可能性が高い。……だから、止めろ、ってことだろ」
「ああ。若人くんも、俺も、そう思ってる。少なくとも、原因がはっきりするまでは、いったん止めたほうがいい」
「できるか、そんなこと」
光一の声が、厨房に硬く響いた。夏子が、洗い物の手を止める。
「あのWi-Fiは、商工会の金で入れたんだぞ。役員会で何度も話し合って、やっと通したんだ。それを、俺の一存で止められるわけがないだろう」
「なら、役員会を開けばいい」
「開いて、何て言うんだ。『呪いの写真が出回ってるから、Wi-Fiを止めましょう』ってか?」
光一は報告書を指で叩いた。
「データの大きさが、ちょっと違う。それだけだろう、ここに書いてあるのは。歪んで見えるなんて言っても、見えない奴には何も見えないんだ。役員の半分は、きっと何も見えない。そんな連中に、どうやって説明する」
「光一……」
「それに、祭りの案内も、出店の支払いも、全部あのWi-Fiを使う前提で準備してるんだ。今さら止めて、祭りをどうする。噂だけで止めたなんて知れたら、それこそ『呪いのWi-Fi』だって騒がれて、祭りは終わりだ」
光一の言うことは、筋が通っていた。筋は通っている。だが、慎吾は、光一の目を見て、そこに何か別のものがあることに気づいていた。
焦りだ。
理屈で慎吾を退けながら、光一の目は、ずっとどこか遠くを見ている。いや、遠くではない。今朝、学校へ出ていった娘の背中を見ているのだ。
「……じゃあ、どうするつもりだ」
慎吾が静かに尋ねると、光一はノートパソコンを引き寄せた。
「原因は、俺が突き止める。写真の差し替えだって、まだ試してないやり方がある。祭りまでには、必ずなんとかする」
「光一。お前、昨日から何回、写真を上げ直した」
「……十回は、超えてるな。いや、もっとか」
「それで、何か変わったか」
光一は答えなかった。キーボードの上で、指が止まる。
慎吾は大きく息を吐き、報告書を光一の前から引き取った。
「わかった。今日のところは引き下がる。だがな、光一。一人で抱え込むなよ。俺も洋子も、若人くんも咲ちゃんも、みんなお前の味方なんだ。それだけは忘れんな」
「……ああ」
光一は、短くそう答えただけだった。視線は、もう画面に戻っていた。
慎吾が店を出ていくとき、夏子が見送りに出てきた。ドアの外、蝉の声が降りそそぐ中で、二人はしばらく黙って立っていた。
「ごめんなさいね、慎吾さん。せっかく来てくれたのに」
「いや。……夏子さん、あいつ、昨日寝てないだろ」
「ええ。たぶん、一睡も」
「オムレツ、焦がしてたな。外まで匂ったぞ」
夏子は、困ったように小さく笑った。
「あの人がオムレツを焦がすの、初めて見たわ」
「……いつもの光一じゃねえな」
「ええ。いつものあの人じゃない」
二人は、同時に店の中を振り返った。ガラス越しに、ノートパソコンに向かう光一の背中が見える。その背中は、いつもよりずっと小さく見えた。
◇
その夜も、光一はノートパソコンの前を離れなかった。
新しい写真を選び、アップロードのボタンを押す。画面の隅で、送信を示すバーがゆっくりと伸びていく。データは店のPCを出て、商店街のフリーWi-Fiを通り、交差点の角に据えられた機械箱を抜けて、サーバーへと運ばれていく。
ページを開く。写真の真ん中が、ゆらりと歪む。
光一は唇を噛み、また別の写真を選ぶ。
店の外では、寝静まった三番街の交差点で、歩道の脇の真新しい金属の箱が、低い唸りを上げていた。光一がボタンを押すたびに、その表面の小さなランプが、ちかり、と瞬く。
ちかり。
ちかり。
それに気づく者は、誰もいなかった。















