第二章 拡大3

夕方の最後の予約を終え、真島は施術室のシーツを取り替えていた。窓の外から差し込む西日が、カーテン越しに部屋の壁をぼんやりと橙色に染めている。真島の目には、それが輪郭のない、温かな色の広がりとして映っていた。
受付のほうで、ドアの開く音がした。続いて、どすどすと遠慮のない足音。それから、ふわりと鼻をくすぐる、日本酒と古い段ボールの匂い。
「若人くん、いるかー?」
「いますよ、慎吾さん。どうぞ、奥へ」
顔を見なくても、誰だかすぐにわかる。足音と声と、酒屋の匂い。三つ揃えば間違えようがない。
施術室に顔を出した慎吾は、ハンカチで額の汗を拭いながら、ふうっと大きく息をついた。
「いやあ、外は地獄だな。ここは天国だ」
「予約、入ってましたっけ?」
「いや、入ってねえ。今日は客じゃなくて、ちょっと話があってな」
「話、ですか」
真島はシーツの端をきっちりと折り込みながら、慎吾の声の調子に耳を澄ませた。いつもの陽気さの奥に、どこか張り詰めたものがある。
「……でも、慎吾さん、今日も走ったでしょう。歩き方が、右に少し傾いてますよ」
「げっ。わかるのか」
「足音でわかります。ふくらはぎ、張ってるんじゃないですか。せっかくですから、話は施術しながら聞きますよ。ちょうど最後の予約が終わったところですし」
「いや、俺は話をしに……」
「はい、うつ伏せでどうぞ」
有無を言わせない穏やかな声に、慎吾は観念したように施術台に横たわった。真島の指が、慎吾の右のふくらはぎに沈み込む。
「いっ……! いでででで! ちょ、若人くん、そこ、そこはっ……!」
「あー、やっぱり。だいぶ固まってますね。また坂道ダッシュでもしたんですか」
「なんでわかるんだよ……っ、いっててて!」
「慎吾さんの脚は、正直ですから」
真島はくすりと笑いながら、容赦なく指を押し込んでいく。慎吾はしばらく施術台の上でじたばたともがいていたが、やがて観念したのか、枕に顔を埋めたまま、くぐもった声で話し始めた。
裕太が配達の途中で倒れかけたこと。あやめも具合を悪くしていること。ネットで噂がとんでもない勢いで広まっていること。そして、ネミッサで咲に写真を見せたこと。
咲の名前が出たところで、真島の指がほんのわずかに止まった。
「咲さんに、見せたんですか」
「ああ。こういうもんの見立ては、咲ちゃんが一番だからな」
慎吾は、咲が語ったことを、できるだけ咲の言葉のまま伝えた。巷の心霊写真はほとんどが見間違いだということ。けれど、これは違うということ。何十人、何百人もの独り言を、一つの瓶に詰めて煮詰めたようなものだということ。意思がないから、話も通じないということ。
そして、最後に。
「咲ちゃんが言うにはな、こいつは撮ったときにその場にいたもんじゃなくて、写真が出来上がった後から、上にべったり乗っかってるんだと」
真島の指が、今度ははっきりと止まった。
「……後から、乗っかってる」
「ああ。俺には何のことかさっぱりだが」
真島はしばらく黙っていた。施術室に、エアコンの低い唸りだけが響く。
後から乗っかっている。それは、真島が昨夜、モニターの前で何時間もかけて確かめたことと、まったく同じだった。真島はデータを比べて、数字でそれを突き止めた。咲は、写真をひと目見ただけで、それを言い当てたのだ。
「……さすがですね、咲さんは」
真島は小さく呟き、再び指を動かし始めた。
「慎吾さん。実は僕のほうでも、少しわかったことがあるんです」
「おっ、本当か」
「昨日、ビリーブでお昼を食べたとき、コーヒーの写真を撮って、自分のサーバーに送ってみたんです。商店街のフリーWi-Fiにつないで」
「コーヒーの写真? なんでまた」
「確かめたいことがあったので。……その写真、元のデータと、サーバーに届いたデータとで、サイズが違っていました。届いたほうにだけ、何か余計なデータがくっついていたんです。商工会のホームページの写真と、まったく同じように」
慎吾が、枕から顔を上げた。
「……ってことは」
「同じ写真を、僕の自宅や、この店の回線から送ったときには、何も起きませんでした。サイズは一バイトも変わらない。おかしくなるのは、フリーWi-Fiを通ったときだけです」
真島は慎吾の脚から手を離し、タオルで指を拭った。
「つまり、原因はフリーWi-Fiを通る道のどこかにある。咲さんが言った、後から乗っかる何かは、そこで乗っかっているんだと思います」
真島は、そこで言葉を切った。本当は、まだ続きがあった。だが、それを今ここで口にしても、慎吾を余計に混乱させるだけだろう。真島は、喉まで出かかった言葉を、そっと飲み込んだ。
「フリーWi-Fi……」
慎吾は施術台の上に起き上がり、呆然と呟いた。
「あれは、商工会が金を出して、つい先月、交差点の工事に合わせてようやく入れたもんだぞ。光一が、商店街の若い客を増やしたいって、何年も前から言い続けて、やっと形にしたんだ。今年の祭りでも、案内や支払いに使うつもりで……」
「知っています。僕も、設置の相談に乗りましたから」
真島の声は静かだった。
「それに、もう一つ厄介なことがあります。この歪みは、見える人にしか見えない。永輔くんや洋子さんのように、何も感じない人も大勢いる。データのサイズが変わっているのは確かな証拠ですが、それだけなら、ただの通信の不具合だと言われてしまえばそれまでです。フリーWi-Fiを止めましょう、と言っても、見えない人たちを納得させるのは、簡単じゃない」
「……だよな」
慎吾は大きな手で顔をこすった。
「だが、言わなきゃならねえ。光一のやつ、このままじゃ一人で抱え込んで、何をしでかすかわからん」
「明日、光一さんのところに行かれるんですか」
「ああ。若人くんも来られるか?」
「明日は予約が詰まっていて……すみません。その代わり、今夜中に、今わかっていることを報告書にまとめて、光一さんと慎吾さんに送ります。数字も、比べた画像も、全部つけて」
「助かる。恩に着るよ」
慎吾は施術台から降り、右脚を軽く振ってみて、おっ、と目を丸くした。
「……軽い。なんだこれ」
「でしょう。今日の分は、報告書と一緒に請求しておきますね」
「金取るのかよ!」
「冗談ですよ」
真島がくすくすと笑うと、慎吾も、つられて少しだけ笑った。それから、ふっと真顔に戻る。
「若人くん。咲ちゃんにも、今の話、伝えとこうか」
「お願いします。……いや」
真島は少し考えてから、首を横に振った。
「慎吾さんから、伝えておいてください。僕が直接説明しても、たぶん咲さん、機械の話は半分も聞いてくれませんから」
「ははっ、違いねえ」
慎吾は笑いながら、施術室を出ていった。受付のドアが閉まり、足音が路地の喧騒に紛れて遠ざかっていく。
静かになったスタッフルームで、真島はPCの前に腰を下ろした。部屋の隅に据えた背の高い黒い筐体は、これだけの性能を秘めていながら、ファンの音ひとつ立てない。前面に縦に並んだ五つの小さなランプだけが、真島の指の動きに応えるように、順に淡く瞬いた。予約表を開き、画面の拡大率を上げる。読み上げ音声が、明日の予定を淡々と告げた。
──予約は、ありません。
真島は小さく息をついた。慎吾には悪いことをした、と思う。だが、明日一日は、どうしても誰にも邪魔されずに、確かめたいことがあった。
モニターに、昨夜から何度も見比べてきた二つのファイルを並べる。フリーWi-Fiを通る前のコーヒーの写真と、通った後の写真。慎吾に話したのは、ここまでだ。後の写真のほうが、サイズが大きい。何かが付け加えられている。それだけなら、まだ説明のしようがある。
だが、慎吾に話していないことがあった。
増えるデータの量は、送るたびに違う。前と後のファイルの中身を一つ残らず突き合わせても、どこにも違いは見つからないのに、大きさを示す数字だけが増えている。そして、ネットから切り離したPCで複製すると、増えた分は、まるで分け合うように、元と複製とに割れて減っていく。
どれも、真島の知っている理屈では説明がつかない。
では、ネットにつながったまま、今この瞬間も次々と共有されていくあの写真たちは、どうなっているのか。明日は、それを確かめなければならない。
「中身のどこにもないデータ、か」
真島は椅子の背にもたれ、天井を仰いだ。目に映るのは、ぼんやりとした天井の白さだけだ。それでも、すぐ近くで、何かが音もなくうごめいているような気がした。
いつの間に入り込んだのか、ソファーの端に、白くて柔らかい温もりが丸くなっている。
「来てたのか、ろくすけ」
指先で探ると、ろくすけは喉をごろごろと鳴らして、真島の手のひらに頭をこすりつけてきた。
何十人、何百人もの独り言を、煮詰めたようなもの。
昨日、交差点の機械箱のそばで聞いた、あの耳鳴りのようなざわめき。気のせいだと流したあの音が、もし、無数の誰かの声が重なり合ったものだったとしたら。
「……君には、聞こえてるのかな」
ろくすけは答える代わりに、小さく一度だけ鳴いた。















