第二章 拡大2

路地を少し歩いた先に、赤レンガの壁が見えてくる。看板の明かりはまだ消えたままだ。慎吾が重厚な木製のドアを押すと、ドアベルが軽やかに鳴った。

昼の光が届かない店内は、外の熱気が嘘のようにひんやりとしていた。裸電球には一つだけ明かりが入っていて、その下で、咲がカウンターに並べたグラスを一つずつ磨いている。目元にかかる前髪を残して黒髪を後ろで結び、白いシャツの袖を肘までまくった、開店前のいつもの姿だ。

「まだ準備中よ。……って、慎吾さん? 裕太くんまで。どうしたの、こんな時間に」

「悪いな、咲ちゃん。仕事中に」

咲はグラスを置き、二人の顔を順番に見た。そして、裕太のところで目を止める。

「裕太くん、顔色悪いわね。ちょっと座りなさい」

有無を言わせない口調で、咲はカウンターのスツールを顎で示した。裕太がおとなしく腰を下ろすと、咲は手早く冷えた炭酸水をグラスに注ぎ、薄く切ったレモンを一枚落として、裕太の前に置いた。

「ほら、少しずつ飲んで」

「す、すみません……ありがとうございます」

裕太はグラスを両手で包みながら、店内をきょろきょろと見回した。その視線の意味に気づいた咲が、ふっと口の端を上げる。

「ありさなら、今日は仕事よ」

「えっ!? い、いや、別に僕は……!」

「ふうん。別に、ね」

咲が涼しい顔でグラス磨きに戻ると、裕太は耳まで赤くして炭酸水を一気にあおり、盛大にむせた。慎吾が呆れたようにその背中をさする。

「お前なあ……。具合悪いんじゃなかったのかよ」

「げほっ……す、すみません……」

ひとしきり咳き込む裕太を横目に、咲は慎吾に向き直った。

「で? 用件は何? 慎吾さんが昼間からここに来るなんて、よっぽどのことでしょ。飲みに来たわけじゃないのは、顔見ればわかるけど」

「ああ。……咲ちゃん、最近ネットで出回ってる心霊写真の噂、知ってるか? 見る人によって見え方が違うってやつだ」

咲の手が、一瞬だけ止まった。だが、すぐに何事もなかったかのように、またグラスを磨き始める。

「噂くらいはね。お客さんがよく話してるわ」

「裕太が、それを見て具合が悪くなった。光一のところのあやめちゃんもだ。俺も見たが、確かに少し歪んで見える。洋子は何ともないって言うんだがな」

慎吾は、裕太から聞いた話と、自分が掲示板やSNSで見たことを、かいつまんで説明した。咲は黙って最後まで聞いていたが、話が終わると、磨き終えたグラスを光にかざしながら、小さく息をついた。

「慎吾さん。悪いけど、巷で心霊写真って呼ばれてるものなんて、ほとんどは見間違いよ」

「……そうなのか?」

「光の加減とか、レンズの汚れとか、壁の染みがたまたま顔に見えるとか。人間の目って、何でもないものを、勝手に意味のある形に見ちゃうようにできてるの。それに、怖い噂が先に耳に入ってたら、なおさらね」

咲はグラスを棚に戻し、腕を組んでカウンターに寄りかかった。

「だいたい、考えてもみてよ。もし死んだ人が本当に何か伝えたいことがあるなら、気づかれるかどうかもわからない写真の隅っこにぼんやり出るより、その人の枕元に立ったほうが、よっぽど手っ取り早いでしょ」

「ま、枕元……」

裕太が思わず繰り返すと、咲は真顔で頷いた。

「そう。枕元。そっちのほうが確実に伝わるし、相手の顔もちゃんと見られる。わざわざ写真に出る理由なんて、ないのよ」

「じゃあ、本物の心霊写真なんてのは、ないってことか?」

「ないとは言わないわ。ただ、あるとしたら二つだけ。見える人間が、そこに何かいるとわかっていて、わざと狙って撮ったもの。それか、本当にたまたま、レンズがそこにいたものを拾っちゃっただけのもの」

咲は指を二本立て、それからひらひらと振った。

「どっちにしても、向こうが見せたくて写ってるわけじゃない。写真に出ることで何かを伝えようとする霊なんて、まずいないのよ」

あまりにもあっけらかんと言い切られて、慎吾と裕太は顔を見合わせた。理屈は通っている。通ってはいるが、オカルトの話を、ここまで身も蓋もなく片付ける人間も珍しい。

「……じゃあ、これも見間違いか?」

慎吾は自分のスマートフォンを取り出し、商工会のホームページを開いて、カウンター越しに咲へ差し出した。

咲は面倒くさそうに画面へ目をやり、そのまま、動きを止めた。

提灯の灯りの下で、浴衣姿のあやめが、少し照れたように笑っている。一昨日、ありさに見せられたのと同じ写真だ。あのときは、ちらりと見ただけで目を逸らした。雨の夜、店の外で揺れる蒸気を見たときにも、同じものを思い出して、気のせいだと自分に言い聞かせた。

だが今、正面からはっきりと見てしまった。

あやめの顔のあたりで、何かがうねっている。陽炎のように揺れているのではない。何か、どろりとしたものが、画面の奥で、ゆっくりと渦を巻いている。

こめかみの奥を、冷たい指でなぞられる。一昨日よりも、ずっと強く、ずっと深く。指は一本ではなかった。何本も、何十本もの冷たい指が、我先にと頭の中へ潜り込もうとしてくる。

咲は息を止め、画面から視線を引き剥がした。

「……違う」

低く、絞り出すような声だった。

「これは、見間違いじゃない」

店の中の空気が、しんと冷えた気がした。裕太がごくりと喉を鳴らす。慎吾は、咲の顔から血の気が引いているのに気づいた。

「咲ちゃん、大丈夫か」

「平気。……ちょっと、当てられただけ」

咲はカウンターの端に置いてあった自分のグラスに水を注ぎ、一息に飲み干した。そして、スマートフォンを伏せたまま、慎吾のほうへ押し返す。

「慎吾さん、これ、もう閉じて。裕太くんも、しばらくこの写真は見ちゃだめ」

「わ、わかりました」

慎吾が画面を閉じるのを確かめてから、咲はゆっくりと口を開いた。

「さっき言ったこと、半分は取り消すわ。これは、誰かが何かを伝えようとしてるものじゃない。それは今でも変わらない。でも、見間違いでもない」

「……どういうことだ?」

「さっき、本物があるとしたら二つだけって言ったでしょ。狙って撮ったものか、たまたま写り込んだものか。……これは、そのどっちでもない」

咲は伏せたスマートフォンに視線を落とした。

「これは、撮ったときにその場にいたものじゃないのよ。あやめちゃんにも、写真を撮った場所にも、何の縁もない。写真が出来上がった後から、上にべったり乗っかってる」

「後から、乗っかってる……?」

裕太が首を傾げる。慎吾も、意味を測りかねるように眉を寄せた。

「じゃあ、そいつは一体何なんだ」

「なんて言えばいいのかしら」

咲は少し考え込むように、カウンターの木目を指でなぞった。

「たとえば、何十人、何百人もの人の独り言を、一つの瓶に詰めて、ぐつぐつ煮詰めたみたいな感じ。怒ってるのも、泣いてるのも、寂しがってるのも、ただぼんやり何か考えてるだけのも、全部ごちゃ混ぜになって、どろどろに濃くなってる。誰か一人の念じゃないの。だから、伝えたいことなんて何もない。ただ、溢れてるだけ」

「溢れてるだけ……」

裕太が小さく繰り返す。

「それって、その……悪い幽霊、みたいなものじゃないんですか?」

「そっちのほうが、まだましだったかもね」

咲は苦笑した。

「恨みを持った霊なら、何を恨んでるのか聞いてやればいい。未練があるなら、それを晴らしてやればいい。相手に意思があるなら、話のしようがあるのよ。でも、これには意思がない。誰に何を言いたいわけでもない。話が通じないの。説得も、取引もできない。ただ、そこにあって、溢れ出して、近くにいる人間に勝手に染み込んでいく」

慎吾は腕を組み、低く唸った。

「……厄介だな」

「ええ。とびきり厄介よ」

「で、咲ちゃん。どうすりゃいい。このまま放っておいたら、あやめちゃんも、裕太も、他の連中も、どんどんやられちまうんだろ? 夏祭りだって……」

「わかってる。私だって、祭りの実行委員なんだから」

咲は眉間にしわを寄せた。

「でもね、慎吾さん。私にわかるのは、これが何なのか、ってところまで。なんでこんなものが、スマホの写真なんかに乗っかって、ネットで広まってるのか。そっちは、私にはさっぱりわからない」

咲はちらりと、カウンターの隅に置いてある店のタブレットに目をやった。客から勧められてSNSを始めたものの、いまだに写真一枚上げるのにも、ありさに手伝ってもらっている代物だ。

「機械のことは、からっきしだもの。……そっちは、真島さんの領分よ」

「若人くんか」

慎吾は顎をさすった。商工会のホームページを作り、管理しているのは真島だ。光一が慌てて相談しているとしたら、真っ先に真島のところだろう。

「よし。じゃあ、俺がこれから若人くんのところに行って、今の話を伝えてくる」

「お願い。それと、慎吾さん」

咲は、ドアに向かいかけた慎吾を呼び止めた。

「光一さんのこと、ちゃんと見ててあげて。あの人、あやめちゃんのことになると、見境なくなるから」

「わかってるよ。そのために来たんだ」

慎吾がにやりと笑うと、咲もほんの少しだけ表情を緩めた。

「裕太くん、立てる? 今日はもう、無理しないで帰りなさい」

「は、はい。ありがとうございました、咲さん」

裕太はぺこりと頭を下げ、慎吾の後について店を出ていった。ドアベルが鳴り、外の熱気が一瞬だけ流れ込んで、すぐにまた閉ざされる。

一人になった店内で、咲はカウンターに両手をつき、深く息を吐いた。こめかみの奥には、まだ冷たい指の感触が残っている。

磨きかけのグラスを手に取る。電球の明かりを透かしたグラスの向こうで、店の景色が、ほんの少しだけ、歪んで見えた気がした。

咲は目を閉じ、もう一度、ゆっくりと息を吐いた。


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