第二章 拡大1

激しい雨が三番街のアーケードを叩きつけた夜から一夜が明け、街には蒸し返すような夏空が戻っていた。昨夜の雨を吸い込んだアスファルトから、むっとした熱気が立ちのぼっている。三番街から一本入った路地にある『杉本酒店』。古い木の看板を掲げた店の奥、冷房の風がかろうじて届く帳場で、店主の杉本慎吾は納品書の束と格闘していた。
「……ったく、なんで月末でもねえのにこんなに溜まってんだ」
ぼやきながら電卓を叩いていると、店先のガラス戸がガラガラと開いた。午前の講義を終えて、そのまま昼の配達に出ていたアルバイトの裕太が戻ってきたのだ。
「店長、三番街の配達、終わりました……」
「おー、ご苦労さん。冷蔵庫に麦茶入って……おいおい、裕太、どうした? 顔が真っ青だぞ」
慎吾はパイプ椅子から立ち上がり、思わず裕太の顔を覗き込んだ。普段はテニス部仕込みの体力でハツラツとしている青年が、まるで船酔いでもしたかのように胸元を押さえ、壁に手をついて肩で息をしている。額には、暑さのせいだけとは思えない脂汗が滲んでいた。
「熱中症か? ほら、座れ。洋子、氷!」
慎吾が帳場の椅子を引いてやると、裕太は力なく腰を下ろした。奥から慌ただしい足音がして、妻の洋子が氷嚢とタオルを手に飛んでくる。
「あらあら、裕太くん、大丈夫? ほら、これ首の後ろに当てて」
「すいません、洋子さん……」
冷たい氷嚢を首筋に当てられ、裕太はようやく少し息をついた。そして、震える手でポケットからスマートフォンを取り出し、慎吾に差し出した。
「店長……熱中症じゃ、ないと思うんです。配達の合間に、ちょっとこれを見たら……急に頭がぐらぐらして、吐き気がしてきて……」
「画面見て吐き気? なんだそりゃ」
慎吾が画面を受け取ると、そこには地元の掲示板やSNSで話題になっているという画像が開かれていた。裕太は、苦しげに息を整えながら、ぽつりぽつりと話し始めた。昨日、大学の学食で永輔から「見る人によって見え方が違う心霊写真」の話を聞いたこと。そのとき、まぶたの裏に蠢くような残像が残ったこと。大川さんのところのあやめが、商工会のホームページにある夏祭りのポスター写真を見て、気分を悪くしていたこと。そして今日、配達の合間に気になってもう一度調べてみたら、今度は本当に具合が悪くなってしまったこと。
「……あやめちゃんが? で、商工会のポスター?」
慎吾は太い眉をひそめ、自分のスマートフォンで商工会のホームページを開いた。夏祭りの告知ページ。浴衣姿のあやめが、提灯の灯りの下で少し照れたように笑っている。光一が自慢していた写真だ。
「……ん?」
慎吾の目が細められる。あやめの顔の周辺が、夏の陽炎のように、ゆらゆらと揺れて見えた。見間違いかと目をこすり、もう一度見る。やはり揺れている。じっと見つめていると、視界の端がチカチカとして、こめかみのあたりに鈍い重さがのしかかってくる。慎吾は思わず画面から目を逸らした。
「……確かに、ちょっと歪んで見えるな」
「あなた、大丈夫?」
洋子が心配そうに慎吾の顔を覗き込む。
「ああ、俺はちょっと気持ち悪いくらいだ。……おい、洋子、見るなって」
慎吾が止めるより先に、洋子は夫の手元のスマートフォンをひょいと覗き込んでいた。
「あら、あやめちゃん。浴衣、似合ってるじゃない。可愛く撮れてるわね」
「……何ともないのか?」
「何ともって、何が? 普通の可愛い写真よ」
洋子はきょとんと首を傾げる。慎吾と裕太は、思わず顔を見合わせた。
「……見える奴と、見えない奴がいるってのは、本当らしいな」
「なによ、二人してそんな真剣な顔して」
「真剣にもなるさ。裕太がこんなになってんだぞ」
見る人によって見え方が違う画像など、普段の慎吾なら笑い飛ばしていただろう。だが、目の前で真っ青になっている裕太を見れば、まったくの出鱈目とも思えなかった。
慎吾は、いつも巡回しているネット掲示板とSNSを開いた。ゲームの攻略情報と地元の噂話を眺めるのは、慎吾の数少ない趣味の一つだ。だが、今日のタイムラインには、見慣れない不穏な書き込みがずらりと並んでいた。
『三番街のHPの写真、なんか歪んで動いて見えない?』
『見たら急に頭痛と寒気がした。マジで呪いの画像だろこれ』
『夏祭りのポスターの女の子、顔がぐにゃぐにゃになってて怖い』
『うちの子も学校で見せられて、夜うなされてた』
さらに辿っていくと、夏祭りのポスターだけでなく、商店街の店がSNSに上げた写真の中にも、同じように「歪んで見える」と騒がれているものがいくつもあった。どれも、ここ二週間ほどのうちに急に増えている。
「……おいおい。俺の巡回先にまで、こんなに広がってんのかよ」
慎吾は思わず舌打ちをした。夏祭りは、三番街の商店街にとって一年で最大のイベントだ。商工会の会長を務める大川光一が、どれだけ熱を入れて準備を進めてきたか、昔なじみで参謀役の慎吾は誰よりもよく知っている。
その光一の娘が体調を崩し、しかもその娘の写真が「呪いの画像」としてネットで面白半分に拡散されている。
「……まずいな」
慎吾は、スマートフォンを握る手に力を込めた。
光一という男は、普段は誰よりも冷静だ。商工会の会合で皆が感情的になっていても、一人だけ腕を組んで全体を見渡し、落としどころを見つけてくる。慎吾が参謀と呼ばれていられるのも、結局は光一が冷静に話を聞いてくれるからだ。
だが、あいつには一つだけ弱点がある。あやめのことになると、途端に周りが見えなくなるのだ。
「光一のやつ、今頃、一人で全部背負い込んで、突っ走ってるに決まってる」
あやめが小学生の頃、運動会で転んで膝を擦りむいただけで、店を放り出して病院に駆け込んだ男だ。愛娘が具合を悪くし、その原因が自分の上げた写真かもしれないとなれば、何をしでかすかわからない。
「店長……どうしますか?」
氷嚢を首に当てたまま、少し顔色の戻った裕太が、心配そうに慎吾を見上げた。
「原因をはっきりさせなきゃ、光一も動きようがねえだろうからな。……あいつが無茶する前に、こっちで先回りしてやらねえと」
慎吾はエプロンを外して帳場の椅子に引っかけた。
「裕太、動けるか? ちょっと付き合え」
「え? どこかへ行くんですか?」
「『ネミッサ』だ。咲ちゃんのところへ行く」
「えっ!? さ、咲さんのところへ!?」
一昨日の配達で見かけた、ありさの笑顔が頭をよぎったのか、真っ青だった裕太の顔に、みるみる朱が差していく。慎吾はその頭を、ポカッと軽く叩いた。
「アホ、デレデレしてんじゃねえ。顔色戻ったのは結構だがな」
「し、してませんよ!」
「こういう『理屈の通らないもの』の見立てに関しちゃ、あいつの右に出る奴はいねえ。うちの裕太とあやめちゃんがやられて、光一の祭りが潰されかけてんだ。黙って見てられるかよ」
慎吾がそう言うと、洋子が腰に手を当てて夫を見上げた。
「あら、咲ちゃんのところに? まだお昼過ぎよ。まさか、もう飲みに行くんじゃないでしょうね? あなた、お酒弱いくせに」
「ち、違うって! 昼間っから飲むわけないだろ。光一の夏祭りのポスターに、ちょっと妙なトラブルが起きててな。咲ちゃんにしか相談できない用事なんだよ」
慎吾が慌てて弁解すると、洋子は夫の真剣な顔をしばらく見つめ、それからふっと柔らかく微笑んだ。
「ふふ、分かってるわよ。光一さんのこととなると、本当に放っておけないんだから」
洋子は慎吾のシャツの襟を、ちょいちょいと直してやる。
「店番は任せて。その代わり、帰ってきたらちゃんと説明してね」
「おう。ありがとな、洋子」
慎吾が照れくさそうに頭をかくと、洋子は嬉しそうに目を細めた。結婚して二十年近く経つというのに、二人のやり取りはいつまでも新婚夫婦のようだ。商店街の連中からは「見てるこっちが暑くなる」と半ば呆れられているが、本人たちはまるで気にしていない。
「裕太くん、店長が変なこと言い出したら、よろしくね」
「あ、はい! 任せてください、洋子さん!」
裕太が背筋を伸ばして答えると、洋子はくすくすと笑った。
ガラス戸を開けると、むっとした熱気が二人を包み込む。路地の向こうから、三番街の喧騒と、降るような蝉の声が聞こえてくる。慎吾と裕太は、開店前の静かなバーを目指して、日差しの照りつける路地を歩き出した。















