第一章 波紋4

大学の学生食堂は、二限を終えた学生たちの熱気と喧騒で満ちていた。日替わり定食の箸を進めている裕太の向かいの空席に、ドカッと鞄が置かれた。
「お疲れ、裕太。相変わらず真面目に一人でメシ食ってんのな」
人懐っこい笑顔で現れたのは、同じテニス部に所属する永輔だった。誰にでも気さくに話しかける永輔は交友関係が広く、学内のあちこちから声がかかるタイプだが、なぜか裕太のような生真面目な人間ともよくつるんでいる。
「永輔か。お前もたまには真面目に講義出ないと単位落とすぞ」
「大丈夫だって。俺には裕太っていう優秀なノートの提供者がいるから」
永輔が飄々と笑いながら、裕太の向かいに座って自分の弁当箱を広げる。永輔は友人が多いが、裕太から見ると、全員と一定の距離を保っているように見えることがあった。広く浅い付き合いを好んでいるのか、それとも踏み込まれるのを避けているのか。裕太にはわからないが、悪びれないその笑顔を向けられると、なんだかんだで世話を焼いてしまうのだった。
「で? 今日はなんの用だよ」
「いやさ、お前、今ネットでバズってる噂知ってる?」
永輔は弁当の卵焼きを口に放り込みながら、スマートフォンの画面を裕太に向けた。
「なにこれ。ただの風景写真?」
「心霊写真、らしいぜ。なんでも、人によって見え方が全然違うんだと。俺にはフツーの写真にしか見えないんだけど、見える奴にはぐにゃぐにゃに歪んで見えるらしい」
裕太は少し顔を近づけて画面を凝視した。
「……うーん。言われてみれば、真ん中のあたりが少しぼやけてるっていうか、歪んでる気がしないでもないけど……」
「マジ? お前も少し見える派か。これさ、感受性が強い奴だと幻覚まで見えて、ひどい時はぶっ倒れるって話でさ。昨日、あやちゃんも、この画像じゃないけど、歪みのある画像見てさ、気持ち悪くなってたんだよな」
その言葉に、裕太は箸を止め、永輔を見た。
「あやちゃんって、大川さんのところの?」
杉本酒店の配達で、裕太はビリーブにも週に何度か顔を出している。慎吾と光一は昔なじみで、商工会でも何かと一緒に動いている仲だ。配達のたびに、あやめが「裕太さん、お疲れさまです」と冷たい麦茶を出してくれることもあった。
「永輔、それ本当ならあんまり広めない方がいいぞ」
「わー、出たよ裕太の真面目モード」
永輔はおどけて肩をすくめた。その笑顔が、ほんの一瞬だけ止まったように見えた。けれど、裕太がそれを確かめるより先に、永輔はいつもの調子で言葉を続けていた。
「わかってるって、ただの集団心理か錯視の類だって。まあ、俺はお前にノート借りるついでにちょっと面白い話を持ってきただけだからさ」
永輔はケラケラと笑ってスマートフォンをポケットにしまった。
「あ、やべ。俺、今日バイト一時からなんだった。ノート、明日必ず返すから!」
「おい、永輔! また俺のノート持っていきやがって……!」
裕太の抗議も虚しく、永輔はひらひらと手を振りながら食堂の喧騒の中へと消えていった。残された裕太は小さくため息をつき、トレイを手に席を立った。
返却口へ向かう途中で、ふと目の奥に違和感を覚えて、裕太は足を止めた。瞬きをする。まぶたの裏に、さっきの写真の残像が焼きついている。画面を見ていたときは、気のせいだと思える程度のぼやけだった。それなのに今、まぶたの裏の残像の真ん中では、何かがゆっくりと、うねるように蠢いていた。
裕太はもう一度、強く目を閉じて開いた。食堂のざわめきが戻ってくる。残像はもう、どこにもなかった。
「……寝不足かな」
自分に言い聞かせるように呟き、裕太は午後の講義へと急いだ。
◇
三番街の交差点に差しかかると、蝉時雨の向こうから、行き交う車の音と、商店街の呼び込みの声が混ざり合って聞こえてくる。少し前まで続いていた工事の音は、もうしない。白杖の先がまだ新しいアスファルトの継ぎ目を拾い、真島は信号待ちの人波の端で足を止めた。
すぐそばの歩道の脇に、真新しい金属の箱が据えられている。目にはぼんやりとした灰色の塊にしか映らないが、その中から、冷却ファンの低い唸りが微かに漏れていた。
その唸りに混じって、何かが聞こえた気がした。耳鳴りにも似た、細かなざわめき。昨日、ビリーブのカウンターで感じたものと、どこか似ている。
真島は顔を箱のほうへ向けた。だが、ざわめきはそれきり、車の走行音にかき消されて消えた。信号が変わったことを知らせる誘導音が鳴る。
「……気のせい、かな」
小さく呟いて、真島は横断歩道を渡った。
交差点を渡ってすぐの角に、その喫茶店はある。昼下がりの日差しを白い外壁が照り返し、真島の目にはその一角だけがぼんやりと明るく浮かんで見える。いつもの歩数で足を止め、重厚な木製のドアの取っ手に手をかける。ずしりとした手応えとともにドアを押し開けると、冷房の涼気と一緒に、深煎りの豆の香りが流れ出してきた。その奥から、焦がしバターの甘い匂いと、じっくり煮込まれたデミグラスソースの香りが追いかけてくる。フライパンが五徳を打つ音、食器の触れ合う音、客たちの低い話し声。いつもの『ビリーブ』の音だ。
「真島さん、いらっしゃい」
ちょうどバイトに入ったばかりらしい永輔が、少し息を弾ませながら、真島を席に案内する。時間がある時には、ネット掲示板の話やパソコンの話、ゲームの話で盛り上がる仲だ。年はずいぶん離れているが、真島にとっても、気負わずに話せる数少ない相手だった。真島がオムライスセットを注文すると、しばらくして夏子がカップを持ってやってきた。
「真島くん、食前のコーヒーをどうぞ」
「珍しいですね、食前のコーヒーなんて」
「昨日のイルガチェフェ、あれから少しだけ深めに煎り直してみたの。食後だとオムライスの余韻に負けちゃうでしょう? だから、まっさらな舌で飲んでほしくて」
真島はカップを鼻先に近づけ、ひと口含んだ。昨日の華やかな酸味が少しだけ落ち着き、代わりにチョコレートのような丸い甘さが顔を出している。
「……昨日より輪郭がはっきりしましたね。これなら、冷やしても香りが負けないと思いますよ」
「冷やす?」
「ええ。夏の看板にするなら、これをベースにアイスコーヒーにしてみるのはどうです? 暑い日にこの香りが出てきたら、きっと喜ばれますよ」
「アイスコーヒー……! それ、いいわね。さっそく今夜試してみる」
夏子は満足そうに頷くと、ふと声を落とし、腰のあたりをさすった。
「それとね、焙煎機の前に屈んでばかりいるから、また腰が張ってきちゃって。今週のどこかで、予約って空いてる?」
「木曜の午後なら空いてますよ。あんまり無理しないでくださいね」
「ありがとう。じゃあ木曜でお願いね」
夏子が厨房へ戻ってしばらくすると、永輔がオムライスを持ってやってきた。絶品のオムライスを静かに堪能し、食べ終わったちょうど良いタイミングで、永輔が食後のホットコーヒーを運んできた。
「真島さん、食後のコーヒーお持ちしました」
「ありがとう、永輔くん」
コーヒーをテーブルに置きながら、永輔がいつものように身を乗り出して話題を振ってきた。
「そういえば真島さん、ネットの掲示板とかで例の『歪む心霊写真』の話題、見ました? さっき大学のダチに見せたら、やっぱり真ん中が少し変に見えるって言ってて。なんか最近、あちこちのSNSで似たような画像が拡散されてるみたいなんすよね」
「うん、今朝、患者さんたちからも聞いたよ。ここ二週間くらいで、一気に広がってるみたいだね」
真島が穏やかに答えると、永輔は「マジすか。やっぱりただの都市伝説にしては広まり方が怪しいなぁ」と首を傾げながら、空いたオムライスの皿を引いて厨房の方へ戻っていった。
永輔の気配を見送り、真島はコーヒーカップに手を伸ばした。厨房の奥では、ランチタイムのピークを終えた光一が手を止め、タオルで額の汗を拭っている。真島は一口コーヒーを口に含み、静かな、しかし通る声で呼びかけた。
「光一さん。昨日の商工会のホームページの件ですが……」
光一がピクリと肩を動かし、すぐにタオルを肩にかけてカウンター越しへ歩み寄ってきた。
「真島くん、何か分かったのか?」
「ええ。昨夜、送ってもらった元の画像と、サーバーのアクセスログ、それにアップロードされた画像を突き合わせて調べてみたんです」
真島は声のトーンを落とし、説明を始めた。
「サーバーに保存されている画像には、元の画像の上に不自然なコード……正体のわからない『データ』が付け加えられていました。実際、光一さんの手元にある元の画像と、サーバーに届いた画像とでは、データサイズが明らかに違っていたんです」
光一は眉間に深くしわを寄せた。
「データサイズが増えてる?」
「ええ。最初は、サーバーに届いた後で、外から誰かがデータを付け足したのかと思ったんです。でも、妙なことがあって。試しに、僕の自宅から同じサーバーにクリーンな画像を上げてみたんですけど──何も起きなかった。画像のサイズは、一バイトも変わらなかったんです」
「え……? じゃあ何で俺が上げると歪むんだ?」
光一が狐につままれたような顔で首をひねる。真島は微かに目を細めた。
「サーバー側で何か起きているなら、僕の画像も同じように歪むはずですよね。つまり、画像はサーバーに届いた時点で、もう『何か』が付け加えられていた。この店のPCからサーバーへ届くまでの道のりのどこかで、です」
「道のりのどこかで……『何か』が……?」
光一は顎に手を当て、記憶をたどるように視線を宙にさまよわせた。
「うちのパソコンで最近変わったことといえば……そうだな、商工会で整備した商店街のフリーWi-Fiに、店のパソコンもつなぎ替えたくらいだけどな」
「……なるほど。覚えておきます」
真島は短く答え、カップの縁を指でなぞった。
「もう少し調べてみますね。何か分かったら、また連絡します」
光一は腕を組んで考え込みながらも、「ありがとう、助かるよ真島くん」と頭を下げ、厨房へと戻っていった。
光一の足音が遠ざかると、真島はポケットからスマートフォンを取り出した。画面の拡大率を上げ、Wi-Fiの設定を開く。読み上げ音声が告げるネットワーク名の中から、三番街のフリーWi-Fiを選んで接続する。それから、テーブルのコーヒーカップにカメラを向け、シャッターを切った。
「あれ、真島さん、SNSとかやってましたっけ?」
水のピッチャーを手にした永輔が、横から覗き込んでくる。
「いや、やってないよ。ちょっと、このコーヒーの写真がどうなるか気になってね」
「どうなるかって……映えるかどうか、みたいな?」
「まあ、そんなところかな」
真島はもう一枚、角度を変えて撮影し、そのまま送信する。永輔は首を傾げたが、すぐに興味は別のところへ移ったようだった。
「そういえば真島さん、例の格ゲーの新キャラ、触りました? あれ絶対ぶっ壊れですよ。掲示板でももう弱体化しろって大荒れで」
「ああ、あれね。発売日にやったよ。でもあのキャラ、しゃがみガードを崩す手段がないから、慣れれば対策できると思うな」
「マジすか! 今度教えてくださいよ」
「いいよ。その代わり、ノートは自分で取るようにね」
「えっ、なんで知ってるんすか」
真島は答えず、くすりと笑って送信完了の電子音を聞き届けた。そして残りのコーヒーを静かに飲み干し、席を立った。
◇
午後の施術を終え、最後の患者を見送る頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。
やがて夜が更けると、ぽたりぽたりと落ちてきた大粒の雨は、瞬く間に激しい土砂降りへと変わり、三番街のアスファルトを叩き始めた。激しい雨音を聞きながら、真島は、スタッフルームでパソコンのディスプレイに向き合っていた。画面には、昼間ビリーブで撮ったコーヒーの写真が、元のデータとサーバーに届いたデータの二つ並べて、拡大表示されている。イヤホンからは、二つのファイルの中身を比較する読み上げ音声が、途切れることなく流れ続けていた。
「今日は泊まりになるかな」
真島は紅茶を飲みながら椅子の背に体を預けた。















