第一章 波紋2

午後二時を回り、ランチタイムの波がすっかり引いた店内。夏子は客席を一通り見渡し、最後のひと組がドアを出て行ったのを見送ってから、ふぅと小さく息をついた。店内に残っているのは、常連の真島だけだ。夏子は、カウンターの一番端にある特等席へと歩み寄る。そこでは、畳まれた白杖を傍らに置いた男、真島若人が、ろくすけの隣で、淹れたてのコーヒーから立ち上る湯気を静かに楽しんでいた。
「今日の豆は、少し焙煎を浅めにしてみたの。どう? 真島くん」
夏子がカウンター越しに、にこやかに問いかける。一般的な喫茶店では、すでに焙煎された豆を業者から仕入れることが多い。しかし『ビリーブ』では、夏子が毎日、少量の生豆から店内で自家焙煎を行っている。非常に手間のかかる作業だが、それは彼女の強いこだわりであり、光一の料理に負けない「もう一つの店の看板」でもあった。真島はカップに顔を近づけ、深く香りを吸い込んだ。
「……いいですね。焙煎したての香りが、ちゃんと立ってる。酸味も角がなくて、甘い余韻が長く続く。夏子さんの焙煎の腕、一流のロースター並みかもしれませんよ」
夏子は嬉しそうに目尻を下げた。
「ふふ、ありがとう。今日のはエチオピアのイルガチェフェ。煎り加減を何回か試してみたの。あの人ったら、料理の味にはうるさいくせに、コーヒーのことになると『苦けりゃいい』なんて乱暴なこと言うから、真島くんにそう言ってもらえると毎日焙煎する甲斐があるわ」
真島は光一がそう言い放つ姿を想像して苦笑する。夏子はエプロンで手を拭きながら、店の奥の焙煎機をちらりと振り返り、「明日はもう少しだけ深く煎ってみようかしら」と小さく呟いた。
二人がそんな風に穏やかに談笑していると、少し離れた厨房の方から、永輔とあやめの賑やかな声が聞こえてきた。どうやらスマートフォンの画面を見ながら盛り上がっているらしい。そこに光一も混ざり、「うちのあやめがセンターなんだぞ」という得意げな声が響いてくる。夏子が厨房のほうを見やると、案の定、光一がドヤ顔で胸を張っていた。夏子は呆れたようにため息をついた。
「もう、仕事中に。あやめもスマホばっかり見てないで……」
夏子が注意しようと口を開きかけた、その時だった。
『なにこれ……気持ち悪い』
あやめの小さな声と同時に、店内の空気が、ふっと変わった。
真島の隣で丸くなっていたろくすけが、ぴくりと耳を動かす。ゆっくりと頭をもたげ、細めていた目を開くと、厨房の奥をじっと見つめた。喉の奥で、ごく低く、うなるような音が鳴る。
真島もまた、カップを持つ手を止めていた。冷房の風とは違う、ひやりとしたものが首筋を撫でていく。目には、何も変わったものは映らない。それでも、厨房のほうから、耳鳴りにも似た細かなざわめきが、空気を震わせて伝わってくるような気がした。
「あら、あやめ……?」
異変に気づいた夏子が、心配そうに厨房へ視線を向ける。あやめがやや顔をしかめ、光一が娘を奥へ下がらせていた。夏子は手にしていたダスターを置き、娘の様子を見に厨房の奥へと向かった。
やがて、厨房の奥からノートパソコンを開く音がした。カチ、カチ、とマウスをクリックする音が、のんびりと続く。
「……なんだこれ。バグか?」
光一の呑気な独り言が、真島の耳に届いた。
「更新しても、変わんねえな。ファイルが壊れたか? ……上げ直してみるか」
キーボードを叩く音。少しの間。
「……やっぱり変だな。なんだこりゃ」
首をひねる気配が、カウンター越しにも伝わってくる。真島は音だけで、光一が何をしているのかをおおよそ思い描いていた。ページの更新と、元の画像の上げ直し。真っ先に試すべき手順だ。それでも、直っていないらしい。
真島はカップをソーサーに戻し、カウンター越しに、厨房の奥へと穏やかな声をかけた。
「光一さん、どうかしました?」
光一が顔を上げ、ノートパソコンを抱えたままカウンターのそばまで出てきた。真島も商工会の一員で、パソコンに詳しいことから、いつの間にかIT担当のような役回りになっていた。商工会のホームページも、三年前のリニューアルの際に真島が作り、それ以来、管理と定期的なメンテナンスを引き受けている。記事や写真の更新は光一たち商工会の役員が行い、仕組みの部分は真島が見る。そういう役割分担だった。
「真島くん、ちょうどよかった。商工会のホームページの写真がさ、なんか変なんだよ。真ん中が、ゆらゆらしてて」
「歪み、ですか?」
「ああ。データが壊れたのかと思って、元の画像を上げ直してみたんだけど、やっぱり同じでな。バグかね、これ。俺の上げ方が悪いのかな」
真島の隣で、ろくすけはまだ、光一の抱えるノートパソコンをじっと見つめている。
真島は小さく首を傾げた。
「おかしいな。先週メンテナンスしたときは、何も問題なかったんですけど。今日はこの後、時間があるんです。帰ったら、サーバーのアクセスログと画像データを調べてみますよ」
「本当か? 悪いな、真島くん。俺が下手にいじるより、作った本人に見てもらうのが一番だ。頼む。アップした元の画像は、あとでメールで送っとくよ」
「いえいえ、管理を任されてるのは僕ですから。……それに、ちょっと興味もあるんですよね」













