プロローグ/第一章 波紋1
プロローグ
時刻は午後五時半。梅雨の晴れ間の、じっとりと湿った熱気が、商店街のアーケードの切れ間から流れ込んでくる。厚い雲の隙間から差す西日が、昨夜の雨を吸ったアスファルトを照らし、帰路につく学生や買い物客の喧騒が響き始めていた。七月を目前にした、蒸し暑い夕暮れだった。
アーケードの交差点の隅、バリケードで囲まれた小さな区画で、男は小型の重機のレバーを操作していた。バリケードのすぐ脇には、この工事に合わせて据えつけられたばかりの、真新しい金属の箱が立っている。商店街が新しく引くという、フリーWi-Fiの機械だと聞いていた。
男は、黙々と重機で地面を深く掘り進めている。ドリルが土を砕き、地中の奥底へと進んでいく。
その時だった。
重機の先端が、地中深くで「何か」を砕く嫌な感触が手元に伝わってきた。
男が重機を止めようとした瞬間だった。
冷たくて重い何かが、頭の芯に直接流れ込んできた。
突如、男の視界がぐにゃりと歪む。
商店街のアスファルトの上に、見たこともない鬱蒼とした森、古い土壁の街並み、そして無数の見知らぬ人々の顔が、何枚もの薄いガラスを重ねたように同時に映し出された。
街の喧騒は完全に途絶え、耳の奥……いや、頭蓋骨の内側で、歓声、悲鳴、笑い声、念仏のようなつぶやきが、一斉に爆音となって響き渡る。
他人の記憶と感情の濁流が、男の意識をあっという間に飲み込んでいく。頭の中に何十人、何百人もの思考がなだれ込み、膨れ上がり、男自身の思考を遮る。
男はレバーから手を離し、両手で頭を抱え込んで絶叫した。果たしてそれが自分の意思による絶叫なのか、男にはそれを判断する余裕すらなかった。
主を失った重機のエンジン音だけが響く中、砕かれた地中の奥底からは、陽炎のような「歪み」がとめどなく吐き出されていた。
その歪みは、傍らに立つ真新しい機械箱へと、まるで吸い寄せられるように静かに溶け込んでいった。
第一章 波紋
三番街にある喫茶店『ビリーブ』。この辺りではそれなりに知られた人気店である。日曜日の昼下がり、ドアを開けると、珈琲の香ばしい匂いと、バターとデミグラスソースの食欲をそそる香りが鼻をくすぐる。渋い木目調のカウンターの奥で、店長の大川光一が手際よくフライパンを振るっていた。出来上がった絶品のオムレツを皿に滑らせると、待機していたアルバイトの田川永輔がそれを受け取る。
「お待たせいたしました、特製オムライスです。熱いうちにどうぞ」
永輔は飄々とした人懐っこい笑顔で客に声をかけ、テーブルに皿を置いた。二十一歳の大学生である彼は、誰にでも気さくに話しかけるこの店の名物ウエイターだ。
「永輔くん、こっちのテーブルのバッシングお願い。あと、ホットのブレンド二つ入るからね」
「了解です、夏子さん」
カウンターの逆サイド、エスプレッソマシンの前で手際よくコーヒーを淹れながら指示を出すのは、光一の妻である大川夏子だ。ちょうどドアが開き、顔なじみの老紳士が入ってくる。夏子はドリッパーに湯を注ぐ手を止めないまま、顔だけを上げた。
「いらっしゃいませ。窓際、空いてますよ。今日も濃いめのブレンドでいいですか?」
老紳士は嬉しそうに頷き、迷わず窓際の席へ向かっていく。
「永輔さーん、三番テーブルのお冷や、入れといたよ!」
お盆を抱えてパタパタと厨房に戻ってきたのは、大川夫妻の一人娘、大川あやめだ。中学生の彼女は、学校が休みの日はこうして店を手伝っている。
「お、サンキューあやちゃん。助かるわー」
「私の方が先輩なんだけどなー」
小学生の頃から店の手伝いをしているあやめが唇を尖らせると、永輔は「はいはい、あやめ先輩」とおどけてみせ、夏子が「二人とも、遊んでないで手を動かす」と笑いながらたしなめる。そんなやり取りを、光一は次の皿にデミグラスソースを回しかけながら、目を細めて見守っていた。外は茹だるような夏の暑さと騒がしい蝉時雨に包まれているが、店の中には冷房の涼しい風と、食器が触れ合う心地よい音が流れている。カウンターの端の特等席では、どこから入り込んだのか、白猫のろくすけが丸くなって幸せそうに寝息を立てていた。客たちは食後のコーヒーを楽しみながら、思い思いの時間を過ごしている。誰もが長居したくなるような、穏やかで温かい空間だった。
やがてランチタイムのピークが過ぎ、店内にゆったりとした午後の時間が流れ始めた頃。一息ついた永輔が、まかないのアイスコーヒーを飲みながら、カウンターの端でグラスを拭いていたあやめに声をかけた。
「そういえばあやめ先輩、最近、うちの大学の連中の間でバズってる噂があるんだけど、聞きたい?」
「なになに? あ、また都市伝説?」
「うん。心霊写真なんだけどさ。なんかね、見る人によって全然見え方が違うらしいんだよ。俺みたいに何も見えない奴もいれば、ぐにゃぐにゃに歪んで見える奴もいてさ。しかも感受性が強い奴がそれを見ると、急に酷い幻覚を見たり、最悪、痙攣して倒れたりするらしくて」
「あ、その噂、私の学校でも聞いたことあるかも。見ると具合悪くなる画像が出回ってるって」
「おいおい、永輔。あやめに変な話を聞かせるなよ」
光一がタオルで手を拭きながら、二人の会話に苦笑いで割って入った。
「あ、すみません店長」
「それよりも、商工会のホームページ見たか? 今年の夏祭りの告知写真、昨日、店のパソコンから俺がアップしたんだけどな、うちのあやめがセンターなんだぞ」
光一が途端にドヤ顔になる。
「えっ、マジすか。見たい見たい」
「ちょっと、お父さん! 言わなくていいってば!」
あやめが慌てて止めるのも聞かず、永輔は素早くポケットから自分のスマートフォンを取り出し、ホームページを検索した。
「おー、出た。あやちゃんバッチリ写ってんじゃん。浴衣にメイクまでしちゃって、めっちゃ大人ぶってるし。一瞬誰かと思ったわ」
「もう、見ないでよー!」
顔を真っ赤にして照れるあやめを見て、永輔がケラケラと笑う。
「どれどれ、お父さんにもよく見せてみろ」
光一がカウンター越しに身を乗り出し、満足げな笑みを浮かべて永輔のスマートフォンを覗き込んだ。
「ん?」
確かに愛娘が写っている祭りの写真だ。だが、あやめの顔のあたりだけが、夏の陽炎のように、ほんのわずかに揺れているように見える。
「……なんか、真ん中のあたり、ちょっと歪んでないか?」
「え? そんなことないですよ? 普通に写ってますけど」
永輔が首を傾げる横で、「嘘、変な顔になってるの?」とあやめがスマートフォンを覗き込んだ。数秒後、彼女は「うわっ」と小さく声を上げ、顔をしかめて一歩後ずさった。
「なにこれ……気持ち悪い」
「えっ、あやちゃんもなんか見えるの?」
「見えるっていうか……私の顔のあたり、ぐにゃぐにゃしてない? じっと見てると、なんか酔いそう……」
あやめが胸元を押さえる。永輔は「マジか」と目を丸くした。さっき自分で話したばかりの噂が、ちらりと頭をよぎる。けれど、すぐに、まさかな、と打ち消した。
「画面の見すぎだ。あやめ、ちょっと奥で冷たいもんでも飲んでこい」
「う、うん……」
光一は、厨房の奥に置いてある自分のノートパソコンを開いて、商工会のホームページを呼び出した。昨日、このパソコンからアップロードしたばかりの写真だ。
「……あれ?」
パソコンの画面でも、写真の真ん中は、やっぱり少しだけ揺れて見えた。
「なんだこれ。バグか?」













